今日も緑がキレイ。
それで、原っぱに行きました。
そして、ぼ~っとしました。
「楽に」なりました。
特に何かがあるわけではない、ただ場所と風と、自生する草々。
これが「原っぱ」。
僕の暮らす東京。もちろん大変な大都会なのだけど、あちこちにこの「原っぱ」が、まだまだある。
これを見つけては、ぼ~っと、佇んでみるのが何ともイイ。
ぽかぽかする陽気が次第に涼しい風となり、斜陽が地面に影を刻むまで、ただただ気分の移ろいにまかせて座ったり寝転んだり、時に立ち上がって・・・。
こんな時間を過ごせた日は、なぜか色んなことが「このままでよい」と思えます。
からっぽの時間。これをくれる、からっぽの場所。
大自然でもなく、田畑でもない。
もちろん遊具もない。
そんな場所で親子がじゃれていたり、お年寄りがじっとしていたりする。
「何でもない場所」。実は贅沢です。
中国の風水学には、「明堂」という概念があるそうです。
たとえば、自宅の中にノート一冊分でもいいから、何もない場所をつくってみる。
ただ、空白があるだけの無用の場所。これが明堂。
あえて無用の場所を置くことで、生活に余裕が生まれるんだそうです。
原っぱは、さしづめ都市の明堂というところでしょうか。
東京のこと、公共なり個人なり、おそらく所有者はいるんだろうけれど、あえて原っぱのままにしておくことは太っ腹。これがあることで、「あくまで何となく」、ここがみんなの世界であることが感じられるような気がします。
そういえば、カラダって、空っぽの田んぼという意味なんですって。
宇宙を旅する魂、ふと舞い降りた場所が、空っぽの田んぼだった。
耕して稲を植えるもよし、草花の生えるがままにするもよし。ということでしょうか。
身体すなわち存在の明堂。涼やかなり・・・。
名もない原っぱで、五月の風が教えてくれました!
ps:
夜のダンスクラス。振り替え受講で参加した方が、美しくて泣きそうになったと言ってくれた。
参加の皆さんは一生懸命で、余裕はないかもしれないけれど、だからこそ美しいんでしょうね。
花はその美しさを知らぬままに美しく咲いている。
ありがとう。
それで、原っぱに行きました。
そして、ぼ~っとしました。
「楽に」なりました。
特に何かがあるわけではない、ただ場所と風と、自生する草々。
これが「原っぱ」。
僕の暮らす東京。もちろん大変な大都会なのだけど、あちこちにこの「原っぱ」が、まだまだある。
これを見つけては、ぼ~っと、佇んでみるのが何ともイイ。
ぽかぽかする陽気が次第に涼しい風となり、斜陽が地面に影を刻むまで、ただただ気分の移ろいにまかせて座ったり寝転んだり、時に立ち上がって・・・。
こんな時間を過ごせた日は、なぜか色んなことが「このままでよい」と思えます。
からっぽの時間。これをくれる、からっぽの場所。
大自然でもなく、田畑でもない。
もちろん遊具もない。
そんな場所で親子がじゃれていたり、お年寄りがじっとしていたりする。
「何でもない場所」。実は贅沢です。
中国の風水学には、「明堂」という概念があるそうです。
たとえば、自宅の中にノート一冊分でもいいから、何もない場所をつくってみる。
ただ、空白があるだけの無用の場所。これが明堂。
あえて無用の場所を置くことで、生活に余裕が生まれるんだそうです。
原っぱは、さしづめ都市の明堂というところでしょうか。
東京のこと、公共なり個人なり、おそらく所有者はいるんだろうけれど、あえて原っぱのままにしておくことは太っ腹。これがあることで、「あくまで何となく」、ここがみんなの世界であることが感じられるような気がします。
そういえば、カラダって、空っぽの田んぼという意味なんですって。
宇宙を旅する魂、ふと舞い降りた場所が、空っぽの田んぼだった。
耕して稲を植えるもよし、草花の生えるがままにするもよし。ということでしょうか。
身体すなわち存在の明堂。涼やかなり・・・。
名もない原っぱで、五月の風が教えてくれました!
ps:
夜のダンスクラス。振り替え受講で参加した方が、美しくて泣きそうになったと言ってくれた。
参加の皆さんは一生懸命で、余裕はないかもしれないけれど、だからこそ美しいんでしょうね。
花はその美しさを知らぬままに美しく咲いている。
ありがとう。