美術の話題を。国立新美術館『モネ展』。展示方法がとても面白く、大作こそ無いけれど非常に充実した体験をもらうことができました。
柱となっているのは、年代順に並列される大量のタブローで、歴史的芸術家の表現世界と技術の変容をたどる、オーソドックスな「大回顧展」の体裁。しかし、この展覧会では、順路の途中あちこちに、現代アートの小部屋が出現するのです。トォンブリー、ロスコ、リヒター、ポロックをはじめ、僕らの同時代人の仕事に寄り道できる。これが予想外の楽しさでした。
巨人の足跡に、映画のフラッシュバックのように差し込まれる「いま」・・・。そのたびに気持ちに波風がざわめき、ある思考が紡ぎだされるのです。すなわち、「時を超え、国境を越えて、人はなぜ、かくも輝きを追い求めるのだろう」と。
モネの絵は、がらんとしたチューリヒの美術館で一人向かい合い、目眩のような感覚をおぼえた体験があります。あれは、大連作「睡蓮」のとりわけ大きなタブローだったのだけれど、見知らぬ巨人に何か果てしない宇宙へと連れて行かれるような体験でありました。しかし、今日は違った。同じ人間としての敬愛に変化しました。揺りかごのなかの赤ちゃん、奥様のカミーユ、歩き慣れた風景やパリ万博の喧噪、そして名作「積みわら」「ルーアン聖堂」を経て「睡蓮」へ。これら全てに通呈するのが、毎日の暮らしや出会いから発見された、まばゆい輝き。
色彩とフォルムの乱舞に酔いしれつつ、これらをたどるうち、モネの仕事の数々は、おそらくは人間としての渇仰や希望を、たんねんに日々の観察の中から紡ぎだしていった軌跡だったのではないか、感じたのです。
それが、実は同時代の芸術家にまで連なっている、という気付きを与えてくれたのが、最初に書いた現代アートへの寄り道。これが実は、圧巻の連続でした。
まず目が覚めたのは、エルズワース・ケリーの「緑のタブロー」における瞑想的静寂と、李禹煥における「白」その内に色彩がざわめき音楽を形成する有様。国境や言語を超えて、各人各様の生活を投射するフトコロの広さをもっているのが、現代絵画なんだなあ、と改めて思うのでした。
そして、マーク・ロスコに釘付け。言うまでもなく光の画家。
たった一枚の画面が、時を止めてしまう吸引力をもつ。
ブラックホール彼方に垣間見える光の予感。祈りの果てとも感ぜられる。未来からの光か、あるいは臨死の光か。ともかく、この人の前にあって、誰しも歩みをいったん止めずにはいられない。「非在としての光」。
これに対し、堂本尚郎には「臨在の光」を見ることができる。再びこの世へ。
恥ずかしながら、堂本氏の作品とは初めての出会い。これが凄い。
白く広がる視野に深い緑の領域が示されたそのタブローを前にして、なぜか宇宙というものに親しみや安堵を思うことができる。抽象画ながら昨日今日の小さな喜びさえ重ねることを許してくれる大きさが、ある。暖かく、涼しい。
モネは、出会う風景・人・街の輝きを捉えるうち、やがて定点観測のごとく自宅の庭で睡蓮と向かい合い続け、あの境地を生む。足元にある景色に全宇宙を見抜く視野は、個の内に万象をみるかのようであり、これは禅道にさえ通ずるのではないか。堂本氏の作品に出会って、モネへの距離が一気に近しくなった。禅は、形而上よりこの場所を見るのではなく、掃除・食事など日々の暮らしのうちに形而上を感受する学びと、浅はかながら僕はとらえているのですが、これをモネは画業で直感したのではないか。
そして、松本陽子氏の「光は荒野の中に輝いている」は、ドキドキするほど素敵。1993年の作。この展覧会中、いちばん僕らに近い。油絵ではない。自身の方法をさぐる氏の努力が凝縮しているような画面。画家の手と共鳴しながら、限りなく桜色に向かって光と色彩がダンスをしている。これは、お母さんのおなかで見た世界、「胎内光」に近いのではないか・・・!
物欲きわまり、怪しげな虚光のまばゆさのなか、僕らは暮らし・習慣を疑い始めている。「ほんとう」は、どこに。そう思いつつ眼を凝らす矢先に、この人の画面が出た。
これらすべて、モネとの共感にはじまる作品とすれば、やはり我々は繋がっているとの思い。僕の勝手な想像力では、モネ自身その精神においてフェルメールはもとよりノヴァーリスやゲーテ、果てはジャンヌ・ダルクやベートーヴェンにさえ連なる。すべて、輝きへのあこがれのうちに自ら存在する奇跡・感動を世に示した人々。作品すなわち「輝きへの努力」。美術とは、輝きの連歌なのではないか。
時を超え、僕らの背を押してくれる、その軌跡。存在スルことの何たる贅沢・・・。昼下がりのバベル:六本木、苦手な人ごみながら、皆おなじ地上に生きる人と思えた。ため息の出るような体験をもらうことができました。
柱となっているのは、年代順に並列される大量のタブローで、歴史的芸術家の表現世界と技術の変容をたどる、オーソドックスな「大回顧展」の体裁。しかし、この展覧会では、順路の途中あちこちに、現代アートの小部屋が出現するのです。トォンブリー、ロスコ、リヒター、ポロックをはじめ、僕らの同時代人の仕事に寄り道できる。これが予想外の楽しさでした。
巨人の足跡に、映画のフラッシュバックのように差し込まれる「いま」・・・。そのたびに気持ちに波風がざわめき、ある思考が紡ぎだされるのです。すなわち、「時を超え、国境を越えて、人はなぜ、かくも輝きを追い求めるのだろう」と。
モネの絵は、がらんとしたチューリヒの美術館で一人向かい合い、目眩のような感覚をおぼえた体験があります。あれは、大連作「睡蓮」のとりわけ大きなタブローだったのだけれど、見知らぬ巨人に何か果てしない宇宙へと連れて行かれるような体験でありました。しかし、今日は違った。同じ人間としての敬愛に変化しました。揺りかごのなかの赤ちゃん、奥様のカミーユ、歩き慣れた風景やパリ万博の喧噪、そして名作「積みわら」「ルーアン聖堂」を経て「睡蓮」へ。これら全てに通呈するのが、毎日の暮らしや出会いから発見された、まばゆい輝き。
色彩とフォルムの乱舞に酔いしれつつ、これらをたどるうち、モネの仕事の数々は、おそらくは人間としての渇仰や希望を、たんねんに日々の観察の中から紡ぎだしていった軌跡だったのではないか、感じたのです。
それが、実は同時代の芸術家にまで連なっている、という気付きを与えてくれたのが、最初に書いた現代アートへの寄り道。これが実は、圧巻の連続でした。
まず目が覚めたのは、エルズワース・ケリーの「緑のタブロー」における瞑想的静寂と、李禹煥における「白」その内に色彩がざわめき音楽を形成する有様。国境や言語を超えて、各人各様の生活を投射するフトコロの広さをもっているのが、現代絵画なんだなあ、と改めて思うのでした。
そして、マーク・ロスコに釘付け。言うまでもなく光の画家。
たった一枚の画面が、時を止めてしまう吸引力をもつ。
ブラックホール彼方に垣間見える光の予感。祈りの果てとも感ぜられる。未来からの光か、あるいは臨死の光か。ともかく、この人の前にあって、誰しも歩みをいったん止めずにはいられない。「非在としての光」。
これに対し、堂本尚郎には「臨在の光」を見ることができる。再びこの世へ。
恥ずかしながら、堂本氏の作品とは初めての出会い。これが凄い。
白く広がる視野に深い緑の領域が示されたそのタブローを前にして、なぜか宇宙というものに親しみや安堵を思うことができる。抽象画ながら昨日今日の小さな喜びさえ重ねることを許してくれる大きさが、ある。暖かく、涼しい。
モネは、出会う風景・人・街の輝きを捉えるうち、やがて定点観測のごとく自宅の庭で睡蓮と向かい合い続け、あの境地を生む。足元にある景色に全宇宙を見抜く視野は、個の内に万象をみるかのようであり、これは禅道にさえ通ずるのではないか。堂本氏の作品に出会って、モネへの距離が一気に近しくなった。禅は、形而上よりこの場所を見るのではなく、掃除・食事など日々の暮らしのうちに形而上を感受する学びと、浅はかながら僕はとらえているのですが、これをモネは画業で直感したのではないか。
そして、松本陽子氏の「光は荒野の中に輝いている」は、ドキドキするほど素敵。1993年の作。この展覧会中、いちばん僕らに近い。油絵ではない。自身の方法をさぐる氏の努力が凝縮しているような画面。画家の手と共鳴しながら、限りなく桜色に向かって光と色彩がダンスをしている。これは、お母さんのおなかで見た世界、「胎内光」に近いのではないか・・・!
物欲きわまり、怪しげな虚光のまばゆさのなか、僕らは暮らし・習慣を疑い始めている。「ほんとう」は、どこに。そう思いつつ眼を凝らす矢先に、この人の画面が出た。
これらすべて、モネとの共感にはじまる作品とすれば、やはり我々は繋がっているとの思い。僕の勝手な想像力では、モネ自身その精神においてフェルメールはもとよりノヴァーリスやゲーテ、果てはジャンヌ・ダルクやベートーヴェンにさえ連なる。すべて、輝きへのあこがれのうちに自ら存在する奇跡・感動を世に示した人々。作品すなわち「輝きへの努力」。美術とは、輝きの連歌なのではないか。
時を超え、僕らの背を押してくれる、その軌跡。存在スルことの何たる贅沢・・・。昼下がりのバベル:六本木、苦手な人ごみながら、皆おなじ地上に生きる人と思えた。ため息の出るような体験をもらうことができました。