8/11(金)のダンスクラス、12(土)の基礎クラス、ともにお盆の時期でもあったせいか少人数で行いました。
そのせいか、両クラスとも普段以上に集中した濃蜜な練習。
僕も、このところ連続してステージが続いているせいか、かなり独自な持論を話しながら、メンバーとの関係を深めた感があります。
この両日、話題の中心=練習の柱になったのは、ダンスならではのコミュニケート。自らと、そして他者と、身体の感覚を通して納得いくまで対話するということでした。
金曜日は「2人で踊る」ということ。
実は、僕は自作の大半がソロ作品というアーティストであるにもかかわらず、踊りの基本はデュエットだと思っているのです。
なぜなら、ダンスは元来「息を合わせる」という行為だと思うからです。
たとえソロであっても、踊り手は実際には観客とコラボレートしています。様々なものを無言のうちに共有しながら息を合わせている。何を表現するか以上に、何を共有しているかのほうが、はるかに貴重な感じがして、僕は踊り続けてきました。
そのあたりの事は、やはりクラスに来る人には体に入れていってもらいたいと、常々思っているのです。
昨日の金曜はそのあたりの、もっとも初歩的で素朴な練習を2人一組で。
プロセスは言葉の上では実に簡単。ひとりがなるべく分かりやすい動きをして、もう一人が可能な限り同時に、細部まで真似ていこうとする。という、いわばダンス版のものまねです。これを行いながら、ダンス用語でいう「ユニゾン」の状態に近づけていく。ユニゾンとは「合い響くこと」。
そのためには、互いに対する配慮と集中をかなり高めねばなりません。主となる方は、相手が把握できるように、明快な形・リズム・呼吸・動きの軌跡を追求すべきですし、そのためには必然的に瞬間における自らの内面への集中と、外側からどのように見えているかという自己観察力が要求されます。対して、従となる方は、心を空にして、ひたすら相手のヴァイブレーションを感じ続ける事と、肉体へのスピーディーな反映を要求されます。双方の集中力が一致する瞬間、とてもいい感じで「AVEC(一緒に)」という感覚が目覚めるのです。僕らはダンスならずとも、常に何かと一緒にいるのであって、孤立・孤独とは、その事実に対する不実と僕は思います。
結局、練習は2時間では区切りがつかず、「また必ずやりましょうね」と申し合わせて終わりました。
終了後、「一緒に組んだ相手の事が、なんだか好きになっちゃったみたい」との言葉をいただき、僕も嬉しくなってしまいました。
そして、本日土曜日は、新メンバーも加わり、トレーニングとは「自らの体とのデュエットだ」という流れに。
行うメニューは、やはり積み重ねとして毎週同じなのですが、その日その日の主題をもって行う事で、身体の目覚めはうんと進んでいきます。
手には手の、足には足の感情が宿っていると思えば、私たちの体は様々な器官の感情が交差・循環する、非常にドラマティックな場所として捉えることができます。
そうすると、全ての動きは体内での対話の形式ということが感じられます。
自分の所有物として体を動かすのは、単なる独裁ですが、様々な部分の感情を受け渡しするように、丁寧に体の動きを構築していけば、とても豊かな対話のなかに「私」も加わっている、という感じになると思うのですが、いかがでしょうか。
※来週前半は白州での本番。16日のオイリュトミークラスのみ、お休みです。
クラス紹介&参加方法
そのせいか、両クラスとも普段以上に集中した濃蜜な練習。
僕も、このところ連続してステージが続いているせいか、かなり独自な持論を話しながら、メンバーとの関係を深めた感があります。
この両日、話題の中心=練習の柱になったのは、ダンスならではのコミュニケート。自らと、そして他者と、身体の感覚を通して納得いくまで対話するということでした。
金曜日は「2人で踊る」ということ。
実は、僕は自作の大半がソロ作品というアーティストであるにもかかわらず、踊りの基本はデュエットだと思っているのです。
なぜなら、ダンスは元来「息を合わせる」という行為だと思うからです。
たとえソロであっても、踊り手は実際には観客とコラボレートしています。様々なものを無言のうちに共有しながら息を合わせている。何を表現するか以上に、何を共有しているかのほうが、はるかに貴重な感じがして、僕は踊り続けてきました。
そのあたりの事は、やはりクラスに来る人には体に入れていってもらいたいと、常々思っているのです。
昨日の金曜はそのあたりの、もっとも初歩的で素朴な練習を2人一組で。
プロセスは言葉の上では実に簡単。ひとりがなるべく分かりやすい動きをして、もう一人が可能な限り同時に、細部まで真似ていこうとする。という、いわばダンス版のものまねです。これを行いながら、ダンス用語でいう「ユニゾン」の状態に近づけていく。ユニゾンとは「合い響くこと」。
そのためには、互いに対する配慮と集中をかなり高めねばなりません。主となる方は、相手が把握できるように、明快な形・リズム・呼吸・動きの軌跡を追求すべきですし、そのためには必然的に瞬間における自らの内面への集中と、外側からどのように見えているかという自己観察力が要求されます。対して、従となる方は、心を空にして、ひたすら相手のヴァイブレーションを感じ続ける事と、肉体へのスピーディーな反映を要求されます。双方の集中力が一致する瞬間、とてもいい感じで「AVEC(一緒に)」という感覚が目覚めるのです。僕らはダンスならずとも、常に何かと一緒にいるのであって、孤立・孤独とは、その事実に対する不実と僕は思います。
結局、練習は2時間では区切りがつかず、「また必ずやりましょうね」と申し合わせて終わりました。
終了後、「一緒に組んだ相手の事が、なんだか好きになっちゃったみたい」との言葉をいただき、僕も嬉しくなってしまいました。
そして、本日土曜日は、新メンバーも加わり、トレーニングとは「自らの体とのデュエットだ」という流れに。
行うメニューは、やはり積み重ねとして毎週同じなのですが、その日その日の主題をもって行う事で、身体の目覚めはうんと進んでいきます。
手には手の、足には足の感情が宿っていると思えば、私たちの体は様々な器官の感情が交差・循環する、非常にドラマティックな場所として捉えることができます。
そうすると、全ての動きは体内での対話の形式ということが感じられます。
自分の所有物として体を動かすのは、単なる独裁ですが、様々な部分の感情を受け渡しするように、丁寧に体の動きを構築していけば、とても豊かな対話のなかに「私」も加わっている、という感じになると思うのですが、いかがでしょうか。
※来週前半は白州での本番。16日のオイリュトミークラスのみ、お休みです。
クラス紹介&参加方法