今年の本公演「ANARCHITEKT」おかげさまで、盛況のうちに幕を降ろすことができました。
関わっていただくことができた全ての皆様に、この場を借りて感謝します。
本当にありがとうございました。
さて、まだ総括とまではいきませんが、ステージ終了の本人感想です。
1:アーチスト同士の出会う瞬間を、提示したい。
2:「現象」としてのダンスを探ってみたい、ダンスが、瞬間的に「消えてしまう」ものであることを味わう場にしたい。
という出発点について。
「1」はやりきったと思います。
音楽のみならず、常連である照明や空間デザインに至るまで、普段の作業には無いような軽やかな仕方で挑んでもらうことができ、結果的には強い主張がありながらも「アソビ」を充分にもった現場になったと思います。
session1、大南氏は旧知の作曲家。それだけに「その場限りの」意味の無いセッションは行わぬというシビアさがただよい、舞台には一人だけで立ってくれとのこと。
しかし、本番が始まるやいなや、精密に打ち合わせでもしたかのように心をノックしてくる音が途絶えません。それらのほとんどは生活音。氏のもとには、なんと52名もの方々から今回のための音源が提供されたとの事で、僕らと観客の皆さんは、いっしょにそれらの封を開いていくスリルを味わいながら時間を楽しむことができました。
このセッションでは、生活の断片が何とも愛おしく、叙情豊かであることを再認識できました。
音源をいただいた方々、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました!
session2、鈴木氏とは、文字通り、これが初めての出会いでした。
氏の作品初演をたまたま聴いたおかげで実現したセッションでしたが、踊りと打楽器を識別するコンピュータの全く予想外の音色と驚異的な太鼓の集中力で対峙していただきました。
衣裳は舞台にありとの約束で丸裸の板付きに始まり、すっかり片付けられた空間のなか、観客の皆様の視線もすさまじい気迫。ラストでの勝負を迫るような照明。
色んな意味でとことん追いつめられる時間は、単なる出会いに終わらず、今後の追求に向けての宣戦布告の感さえあったと感じております。
この時間の出現は、多くを鈴木氏のあくなきこだわりによっていると思います。
氏の作品はいずれもドライでゲーム的感性に彩られていますが、このセッションを通じて、本質的に「音そのもの」への愛に満ちていると思いました。鋭いドラミングや先鋭的なコンピュータ操作の背後には、他者への信頼という、現代の宿願が隠されているように感じます。この、若く聡明な作曲家に、ぜひご注目いただきたいと思います。
次に、上記「2」については、まだまだ課題山積と感じました。
「現象」としてのダンス。すなわち「消えゆくもの」への愛を刻印するには、今後かなりの修練を必要とする事を痛感しました。この課題を実現するには、生命そのものへの深い帰依が必要なんだと思い知りました。
アンケートの中に、「この調子で歳をとっていってほしい、その姿を見たい」との趣向が書かれたものがありました。
また、「自然と一体となる夢を抱いて良い。美の瞬間はそのまま捨ておいてしまって良いのだ。我々はすでに体験したのだから。」との言葉も。
思想や技術ではなく、実存そのものを求められているのだと感じました。
僕が自ら設定した衝動。それは「メメント・モリ=死を憶え」という命題に突き当たるのかもしれません。
死を憶う、とは全面肯定への逆理であります。
僕は宗教者でも哲学者でもありませんから、欲望だらけの生身の人間として、体当たりしていくほかありません。
課題を感じた分、テーマを獲得しました。
この他に、両セッションを通じて、何よりも痛感したのは、行為は、過去よりも予感の側に根拠をもっている可能性が高いということです。
「現在」をどう意識するかではなく、未来を意識する事によってこそ現在が生成しているということ。
現在とは未来観の顕現に他ならぬということを、実感しました。
このあたり、今後の作品展開に関わってきそうです。
話はとびますが、session2の出番直前の楽屋で、クセナキスが作曲した曲を、血まみれの努力によって演奏する事に成功した方の話をききました。ピアニスト・大井浩明氏です。
大部分の名曲が、発表当時は難曲とよばれたり、観客にとっても難解と捉えられたりしてきたようですが、本質的に、良い作曲家のスコアは、未来においてこそ、演奏可能(同時に受け入れる事も)であるということを前提としている事があると思います。それを受けて、演奏家は身体と感覚の潜在能力を引き出していく、というシステム。
すなわち、ある種の感覚によって、身体の潜在能力を予感し、それを努力によって実現する意識の到来を待っている白紙が、スコアであるということでしょうか。
では、音楽と親類関係にあたるダンスではどうなのか・・・。
公演終了(実はまだ打ち上げさえしていないのですが)からすでに70時間余、新しい妄想や挑戦に気持ちはつのる一方です。
これからも、納得のいく成果を提示すべく、生き急ぎたいと思います。
関わっていただくことができた全ての皆様に、この場を借りて感謝します。
本当にありがとうございました。
さて、まだ総括とまではいきませんが、ステージ終了の本人感想です。
1:アーチスト同士の出会う瞬間を、提示したい。
2:「現象」としてのダンスを探ってみたい、ダンスが、瞬間的に「消えてしまう」ものであることを味わう場にしたい。
という出発点について。
「1」はやりきったと思います。
音楽のみならず、常連である照明や空間デザインに至るまで、普段の作業には無いような軽やかな仕方で挑んでもらうことができ、結果的には強い主張がありながらも「アソビ」を充分にもった現場になったと思います。
session1、大南氏は旧知の作曲家。それだけに「その場限りの」意味の無いセッションは行わぬというシビアさがただよい、舞台には一人だけで立ってくれとのこと。
しかし、本番が始まるやいなや、精密に打ち合わせでもしたかのように心をノックしてくる音が途絶えません。それらのほとんどは生活音。氏のもとには、なんと52名もの方々から今回のための音源が提供されたとの事で、僕らと観客の皆さんは、いっしょにそれらの封を開いていくスリルを味わいながら時間を楽しむことができました。
このセッションでは、生活の断片が何とも愛おしく、叙情豊かであることを再認識できました。
音源をいただいた方々、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました!
session2、鈴木氏とは、文字通り、これが初めての出会いでした。
氏の作品初演をたまたま聴いたおかげで実現したセッションでしたが、踊りと打楽器を識別するコンピュータの全く予想外の音色と驚異的な太鼓の集中力で対峙していただきました。
衣裳は舞台にありとの約束で丸裸の板付きに始まり、すっかり片付けられた空間のなか、観客の皆様の視線もすさまじい気迫。ラストでの勝負を迫るような照明。
色んな意味でとことん追いつめられる時間は、単なる出会いに終わらず、今後の追求に向けての宣戦布告の感さえあったと感じております。
この時間の出現は、多くを鈴木氏のあくなきこだわりによっていると思います。
氏の作品はいずれもドライでゲーム的感性に彩られていますが、このセッションを通じて、本質的に「音そのもの」への愛に満ちていると思いました。鋭いドラミングや先鋭的なコンピュータ操作の背後には、他者への信頼という、現代の宿願が隠されているように感じます。この、若く聡明な作曲家に、ぜひご注目いただきたいと思います。
次に、上記「2」については、まだまだ課題山積と感じました。
「現象」としてのダンス。すなわち「消えゆくもの」への愛を刻印するには、今後かなりの修練を必要とする事を痛感しました。この課題を実現するには、生命そのものへの深い帰依が必要なんだと思い知りました。
アンケートの中に、「この調子で歳をとっていってほしい、その姿を見たい」との趣向が書かれたものがありました。
また、「自然と一体となる夢を抱いて良い。美の瞬間はそのまま捨ておいてしまって良いのだ。我々はすでに体験したのだから。」との言葉も。
思想や技術ではなく、実存そのものを求められているのだと感じました。
僕が自ら設定した衝動。それは「メメント・モリ=死を憶え」という命題に突き当たるのかもしれません。
死を憶う、とは全面肯定への逆理であります。
僕は宗教者でも哲学者でもありませんから、欲望だらけの生身の人間として、体当たりしていくほかありません。
課題を感じた分、テーマを獲得しました。
この他に、両セッションを通じて、何よりも痛感したのは、行為は、過去よりも予感の側に根拠をもっている可能性が高いということです。
「現在」をどう意識するかではなく、未来を意識する事によってこそ現在が生成しているということ。
現在とは未来観の顕現に他ならぬということを、実感しました。
このあたり、今後の作品展開に関わってきそうです。
話はとびますが、session2の出番直前の楽屋で、クセナキスが作曲した曲を、血まみれの努力によって演奏する事に成功した方の話をききました。ピアニスト・大井浩明氏です。
大部分の名曲が、発表当時は難曲とよばれたり、観客にとっても難解と捉えられたりしてきたようですが、本質的に、良い作曲家のスコアは、未来においてこそ、演奏可能(同時に受け入れる事も)であるということを前提としている事があると思います。それを受けて、演奏家は身体と感覚の潜在能力を引き出していく、というシステム。
すなわち、ある種の感覚によって、身体の潜在能力を予感し、それを努力によって実現する意識の到来を待っている白紙が、スコアであるということでしょうか。
では、音楽と親類関係にあたるダンスではどうなのか・・・。
公演終了(実はまだ打ち上げさえしていないのですが)からすでに70時間余、新しい妄想や挑戦に気持ちはつのる一方です。
これからも、納得のいく成果を提示すべく、生き急ぎたいと思います。