ダンスは彫刻に似ている、と感じることが、これまで多々ありました。
フォルムにおいてというよりは、そのプロセスにおいてです。
過日、横浜美術館で彫刻家・イサム・ノグチ氏の作品群にあらためて触れる機会があり、その認識はさらに強まった感があります。
彫刻作品という名で、目の前に現れるのは、磨き上げられた素材の質感や、その「なにものか」が顕在する量感ソノモノです。
それは、僕を虚心へといざない、なにかが「存在する/させられてアル」事自体への感慨が僕を直撃します。
形態や題名、意味合いといったものは、「それ自体」とは全く別の次元で存在し、目の前にある作品を生み出した時間の断章として、あるいは、すでに独立したひとつの現象の彼方にある風景の一つとして、あたりを浮遊しています。
素材の持っていた雑多な属性を研磨し、それを加工する作業を導いていた主題さえも削り取ったあとに残ったもの。
静けさの佇まい。
作品は、人間と物質が親しく接し合った形跡として、また接触の深さを示す記憶として、とても静かに立っているのです。
切り出された原石が、ここにある光沢やフォルムを獲得するに至った時間や、彫刻家の作業の痕跡=さめやらぬ熱が、静けさの奥では響いています。それは、目の前にある作品が完結したものではなく、これからも続いていくであろう熱の軌跡の一部であるという事も予感させます。
停止の奥にある連続性……。
氏の作品の前に佇みながら、彫刻というのは、地上の物質に人間の熱や生きた時間を刻み込んでいく仕事なのかな、と感じました。
もしそうだとすれば、彫刻とダンスはとても近い仕事です。
僕は毎日踊りますが、そのたびに「そこにある」肉体の動きが理解しがたく苦しんだり戸惑ったりしています。
からだは決して思う通りになど動いてくれないし、精神もまた、安易に肉体を理解しようとはしません。
僕のダンスは新しいものなので、身体操作を行う技術が特定されているわけではありません。
なんらかの直感と、今ここにある生身の肉体が結びつく方法を、いつも一から探っていく必要があります。
だから、僕にとって身体との関わりは、いつも天然の石や木のように謎とハプニングに満ちています。
ダンスの練習のなかで、精神と肉体は、ただ粘り強くつきあい続け、熱を注ぎ合いながら膨大な時を重ね、ともに変容していくのを忍耐強く待つのです。その節目を切り取ってみせるのがダンスの上演とすれば、彫刻作品もまた、物質と精神の粘り強いつきあい方のフラグメントとして見ることができるのではないかと、イサム・ノグチの作品を見ながら思ったのです。
ダンスも彫刻も、物質と精神の果てしない対話。
フォルムの向こう側で展開する、生命の熱と宇宙の時間のたわむれを楽しむ智恵なのかもしれません。
フォルムにおいてというよりは、そのプロセスにおいてです。
過日、横浜美術館で彫刻家・イサム・ノグチ氏の作品群にあらためて触れる機会があり、その認識はさらに強まった感があります。
彫刻作品という名で、目の前に現れるのは、磨き上げられた素材の質感や、その「なにものか」が顕在する量感ソノモノです。
それは、僕を虚心へといざない、なにかが「存在する/させられてアル」事自体への感慨が僕を直撃します。
形態や題名、意味合いといったものは、「それ自体」とは全く別の次元で存在し、目の前にある作品を生み出した時間の断章として、あるいは、すでに独立したひとつの現象の彼方にある風景の一つとして、あたりを浮遊しています。
素材の持っていた雑多な属性を研磨し、それを加工する作業を導いていた主題さえも削り取ったあとに残ったもの。
静けさの佇まい。
作品は、人間と物質が親しく接し合った形跡として、また接触の深さを示す記憶として、とても静かに立っているのです。
切り出された原石が、ここにある光沢やフォルムを獲得するに至った時間や、彫刻家の作業の痕跡=さめやらぬ熱が、静けさの奥では響いています。それは、目の前にある作品が完結したものではなく、これからも続いていくであろう熱の軌跡の一部であるという事も予感させます。
停止の奥にある連続性……。
氏の作品の前に佇みながら、彫刻というのは、地上の物質に人間の熱や生きた時間を刻み込んでいく仕事なのかな、と感じました。
もしそうだとすれば、彫刻とダンスはとても近い仕事です。
僕は毎日踊りますが、そのたびに「そこにある」肉体の動きが理解しがたく苦しんだり戸惑ったりしています。
からだは決して思う通りになど動いてくれないし、精神もまた、安易に肉体を理解しようとはしません。
僕のダンスは新しいものなので、身体操作を行う技術が特定されているわけではありません。
なんらかの直感と、今ここにある生身の肉体が結びつく方法を、いつも一から探っていく必要があります。
だから、僕にとって身体との関わりは、いつも天然の石や木のように謎とハプニングに満ちています。
ダンスの練習のなかで、精神と肉体は、ただ粘り強くつきあい続け、熱を注ぎ合いながら膨大な時を重ね、ともに変容していくのを忍耐強く待つのです。その節目を切り取ってみせるのがダンスの上演とすれば、彫刻作品もまた、物質と精神の粘り強いつきあい方のフラグメントとして見ることができるのではないかと、イサム・ノグチの作品を見ながら思ったのです。
ダンスも彫刻も、物質と精神の果てしない対話。
フォルムの向こう側で展開する、生命の熱と宇宙の時間のたわむれを楽しむ智恵なのかもしれません。