先日、スチル写真を撮っていただく誘いをいただき、その現場で面白い体験をしました。
まずロケ先が絶景。天空の見つめる下で、草地をえぐったような地層が絶壁を成し、そのさらに下方、身を投じれば死ぬというところに海が青青と広がっている・・・。美貌の自然を前にして生死の選択を予感する感じです。

そして、その場所に到着したとき、カメラマンの方が、まるで自分の子供を紹介するような笑顔で「ココです!!」とおっしゃいました。その瞬間、急速に踊り子としてのモチベーションがアップするのを感じました。写真家にとって、場所との出会いというのは財産なのでしょう。
 「どうやってこんな所をみつけるんですか?」ときくと「あちこち行くのが好きで・・・」なんて答えてくれました。写真って、目の仕事かと思っていたんですが、やはり足の仕事なんだ!と思いました。素敵です。
 その方の、宝物のようなところに足を踏み入れる時、「踊り始めるまでは、決して足跡をつけてはならない」と思い、ガラスの上を歩くように、そっと足の感触を探りました。

 (話はそれますが、)劇場でも僕はバレエシートを好みません。ダンスのために機能的に開発されたものよりも、裸舞台の板がもつ、微妙なササクレや釘跡に足裏が侵蝕される感覚や、そこから与えられる微細な傷のわずかな痛みから、色んな物が体の中に入って来て踊りを発生させていく感じが好きです。
 それは野外でも同じで、アスファルトや砂や土や石ころ、といった、さまざまな地面の力が、足裏から骨盤背骨脳天や指/爪をつきぬけて、とどかぬ天空にちらばっていく有様が、いいんだろうな~、なんて思ってしまうのです。だから、あまり無意識に足跡などつけたくない。大事なものが壊れちゃいそうで・・・。

 ダンサーの体というのは、その置かれた環境や瞬間の全体像をパーッと反映させる触媒みたいなところがあって、お客様が感動されているのは、僕の言いたい事とかなんとかよりも、ご自身の発しておられるエネルギーも含めた、その場所その時間の全体像に対してなんじゃないかと・・・、      ある意味、舞台ってお客様・スタッフさん・物や神・時・空虚との無数のデュエットなのかなと、思いながら僕は踊って来たのですが、それはこの日も同じ。やはりダンスはダンサーのみでは成り立ちません。

 写真家が土俵を敷き、化粧師の手は、彫刻家の刀や聖水を注ぐ神父の指のような感じで体にメッセージを入れる。まあ、そこで一種の契約が成立して、場所に体を置いてみるわけです。
 そうすると、実体としてはそこにないけれど、なぜかリアルにお客様の姿が確かに在る。(いいものを創ろう、という合い言葉は、唯一、具体的な見手の設定にあるわけですから・・・。)そこら辺りの了解が無言のうちに確認できれば、あとは一気に踊りこんでいくわけですが、ここからは感触の世界。

 この日は靴を脱いだ後、スッと草の葉っぱが僕の足裏に浅い傷を与え、そこにしみ込んで来たのは涼しい湿気とすごく細やかな土の粒子・・・。
 そこで妄想と現実がうまいこと肉体上でブレンドされると「振り」がアフォードされていく。セッションの始まり=足跡をつける許可が大地からあたえられるわけです。微細な皮膚感覚(=小さな存在としての自分を確認すること)から、運動を通して散らばっていくこと(=無限大としての自然を確認すること)が、「振り」のインプロヴァイズ。

 その流れと滞りの間で、がんばってみたり困ったりしているところに、ちょうど雲の切れ目が来て太陽が体をつかまえてくれる。(このチャンスが来ないと妥協になるので、すべては終わります。)そこをシャッター=写真家の指/神経がすくいあげる。エネルギーの切れ目をぬって化粧師が手技を入れる。という、一種のリズムが生まれて、「写真」という名のダンスを成立させていく感じ。で、ひょっとすると、そのあたりのカラクリを仕組んだりつなげたりしていくのが、ドレスやスタイリストなんでしょうね。僕は詳しくないのですが、必要性を直感しながら服を着せたり脱がせたり、道具を入れたり排除したりして、上手に用意していく仕事ぶりから、そんな風に感じ、人のつながりや肉体といった自然現象をシンボライズする人工物が衣裳や道具なのかなと想像しました。歌舞伎の黒子に似て、虚実の皮膜を操る「仕事師」というイメージですね。

劇場から一歩出た場所で、不器用に踊りながら感じた事なのですが・・・、
僕はダンサーという肩書きを外すと、何やら色んな人や場所と出会いながら、幸せを探しているらしい・・・。僕らのような人種全体をクリエーターというようですが、我ながら何ともつかみがたい業種です。突然訪れる出会いのなかで徹底的に交わり、いさぎよく離別すること=個の世界に還って「技」を磨き、再会すべき時をにらむ。仕事を重ねる中で育ってしまった、出会いや再会の時期に対する、自分でもよくわからなくなってしまうような、奇妙にシビアな嗅覚と孤独癖。その正体は、実はただ、見知らぬ場所・時間・人と瞬時に「つながる」という感覚、それに向けての方法論を本能的に大事にしているのではないか、ということ。(その辺りの要件を凍結したところにフォトグラフというもののエロスがあるのでしょうか。)空は広く、海は生き物であり、土は確かに体を支える中で、私は立つ力を持たねばならず・・・、という、ごくシンプルな光景=美に直面しながら、そんなことが、ザクッと大まかにつかめました。

体ひとつでやっていける仕事ということで踊り子を始めたつもりが、実際は無数のつながりの中で生かされている、という事を、感じ始めている時期なので、とても楽しい時間を過ごす事が出来ました。7月にはまた舞台を踏む計画があるのですが、うまく反映できればいいなと思いつつ、またいつものように稽古場に立っています。