中村鴈治郎が昨年末「坂田藤十郎」を襲名した、そのときのドキュメンタリーが先日テレビ放映されました。高校生の頃、当時、中村扇雀の名で近松座を率いていた氏の「心中天の網島」を観て、何も知らぬママに近松門左衛門の世界にのめりこんだ記憶があります。そして、今回の番組で、すさまじい稽古のなかから紡ぎ出された一振りの身ぶりが、落雷のように「情」の世界を出現させてしまった風景を見てしまい、再び目を開かれたような感がありました。また、番組の中で、さりげなく使われていた一つの言葉に、思わず襟を正してしまうような衝撃と新たな課題を突きつけられました。それは、「身ぶりは心のあまり」という言葉です。初代坂田藤十郎の言葉だそうですが、そのパートナーであった近松門左衛門による「虚実皮膜論」と共に、まさに究極ともいえるパフォーマンス論ではないでしょうか。
「身ぶり」とは、身体全体の放つ表情。(学問的な諸説とは無関係に)「身」の「フレ」る有様、からだの「ブレ」あるいはその残像と僕は直感しています。
写真などで画面が「ブレる」などと言いますが、(おもわず)振動する・(まっすぐのものが)揺らぐ・(定型が)ずれてしまうイメージですね。「ブレる」というのは変化すなわちエネルギーが発露する瞬間のあらわれであり、そこには何かが生まれる寸前の衝動が感じられます。
映画や写真では、頻繁にこの効果が使用されていますよね。たとえば、深作欣治監督の「仁義なき戦い」は、とことんブレを使ったカメラワークやカッティングを追求して凄まじいエネルギーを解き放っていますし、ゲルハルト・リヒターという画家の作品の中に、一見ピンぼけやブレのある写真、さらによく見ると手で描かれたものだった、というのがいくつかあるのですが、それらは、まさしく好例かもしれません。歌麿なんかの浮世絵でも、やっぱりどこか軸をブレさせている。音楽でいうと、ベートーベンの「運命」なんかは一つの音がダダダダーンとブレる。不協和音などもやはり響きがブレているわけで、これがおもしろい味わいを耳にあたえてくれる。僕の感じでは、そういった、ブレによるエネルギー転換が身体に「起きる」のが「身ぶり」。「身」はもちろん身体、同時に、姿かたち。また、中身などというように内実や中心を示すイメージでもありましょうが、それがなんらかのショックで平衡感覚を崩し、よろめき・ゆらぎによって、ブレた瞬間こそ「身ぶり」であり、そこに僕らは、身体が古い姿をみずから解体しながら次にシフトする、新たな地平を予感し、ワクワクするのだと思います。
生き物の美しさ愛しさは、まさに「身ぶり」の果てしない連続感のなかにあると思うのですが、それを意識的に創出し、またそうさせる必然をあたえる行為が「フリツケ」なのでは・・・。とはいえ、本来無意識的に、自然発生するところの「身ぶり」を人力で生みだそうとするわけですから大変な困難があり、だからこそ身体表現が芸術として存続する必然性もあらためて見えてくる気がします。
姿かたちを思い浮かべるのは誰にでもできることですし、思い浮かんだイメージに相手や己の体に当てはめるだけでは、ただの暴君。
振付とは、藤十郎の言葉「身ぶりは心のあまり」に言う「ココロ」の部分にかかわる行為。これが染み通って「あまり」あるところまでいってようやく身体が響き、姿かたちが「ブレ」を起こす。つまり感動の根本を与える行為にも等しいわけですから、やはりそこには作者・演者の背景がとわれてしまうし、双方のコンタクトが要となる。そこに労苦があって当然ですし、これをちゃんとやらない限りは踊り手の身体がブレてくれない。逆に、そういったことにちゃんとスジが通っていれば、目に見える動き自体が定型ばかりでなくとも成立があるわけで、そこが「舞踏」をはじめフォーサイスやアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのごとく、即興にも振付があるゆえんでしょう。
かく言う僕自身も、こ~やって・あ~やってということで巧くいったためしは一度もなく、練習曲だって、地稽古のなかでずいぶん寝かし、内心自分の踊りとしてやってみたいと思うところまで一旦稽古してから、もう一度こわして骨組みだけにまで戻さないと合点がいかぬ空気が流れてしまいます。ある学校で振付法を教えていますが、学生さんたちも皆、2分3分の振りをつくるのに何ヶ月も、時には1年でも困ったりケンカしたり泣いたりしながらやっており、それでも出来たときには人柄まで変わって感動を共有する。そこでの感動とは、作品がうんぬんということもさることながら、振付というコンタクトを通して、身体が生まれ変わる可能性を垣間見た喜びかと思われます。
踊りでなくとも芸術はすべからく身体を通して実現されます。デュシャンの便器だって身体行為の痕跡です。そして身体表現とは、芸術の原点であり、感じ・動くというプロセスの解体・再構築。それは嘘のない純粋な身体を求める追求の行為とあわせて、感受・感動のメカニズムをさぐるいうことに近いプロセスでは・・・。
時間をかけて、ひとつの心をとことん感受したところで、ある時、体の方がゆらゆら・がらがらと思いがけぬ変化を起こしてしまう。心が定着したところで身体が動き、はみだし始める。そのことが響きとなって、思い通りの格好をしているときよりもかえって本質をさらけだしてしまう。それだけに、身体を使って何かを語ると言うよりは、語り尽くしたあとに残響のごとくのこされた身体の有様こそ、趣ある景色となるのだと思います。逆に心のない身ぶりは、うるさくおしゃべりな割に興をそぎますし、嘘の言葉以上に空虚を伝えてしまうのでしょう。
「身ぶりは心のあまり」。この言葉をのこした初代・藤十郎のあと、近松は生身のパートナーをみいだすことができずに、ふたたび人形の世界へと戻っていったそうです。人形浄瑠璃における人形とは、ひたすら外側より訪れる心を受けとめ、形に反映させることに徹する身体です。そのような身体こそ役者や踊り手の目指すべきものと、近松は考え、大きな問いをのこしたのかもしれません。
「身ぶり」とは、身体全体の放つ表情。(学問的な諸説とは無関係に)「身」の「フレ」る有様、からだの「ブレ」あるいはその残像と僕は直感しています。
写真などで画面が「ブレる」などと言いますが、(おもわず)振動する・(まっすぐのものが)揺らぐ・(定型が)ずれてしまうイメージですね。「ブレる」というのは変化すなわちエネルギーが発露する瞬間のあらわれであり、そこには何かが生まれる寸前の衝動が感じられます。
映画や写真では、頻繁にこの効果が使用されていますよね。たとえば、深作欣治監督の「仁義なき戦い」は、とことんブレを使ったカメラワークやカッティングを追求して凄まじいエネルギーを解き放っていますし、ゲルハルト・リヒターという画家の作品の中に、一見ピンぼけやブレのある写真、さらによく見ると手で描かれたものだった、というのがいくつかあるのですが、それらは、まさしく好例かもしれません。歌麿なんかの浮世絵でも、やっぱりどこか軸をブレさせている。音楽でいうと、ベートーベンの「運命」なんかは一つの音がダダダダーンとブレる。不協和音などもやはり響きがブレているわけで、これがおもしろい味わいを耳にあたえてくれる。僕の感じでは、そういった、ブレによるエネルギー転換が身体に「起きる」のが「身ぶり」。「身」はもちろん身体、同時に、姿かたち。また、中身などというように内実や中心を示すイメージでもありましょうが、それがなんらかのショックで平衡感覚を崩し、よろめき・ゆらぎによって、ブレた瞬間こそ「身ぶり」であり、そこに僕らは、身体が古い姿をみずから解体しながら次にシフトする、新たな地平を予感し、ワクワクするのだと思います。
生き物の美しさ愛しさは、まさに「身ぶり」の果てしない連続感のなかにあると思うのですが、それを意識的に創出し、またそうさせる必然をあたえる行為が「フリツケ」なのでは・・・。とはいえ、本来無意識的に、自然発生するところの「身ぶり」を人力で生みだそうとするわけですから大変な困難があり、だからこそ身体表現が芸術として存続する必然性もあらためて見えてくる気がします。
姿かたちを思い浮かべるのは誰にでもできることですし、思い浮かんだイメージに相手や己の体に当てはめるだけでは、ただの暴君。
振付とは、藤十郎の言葉「身ぶりは心のあまり」に言う「ココロ」の部分にかかわる行為。これが染み通って「あまり」あるところまでいってようやく身体が響き、姿かたちが「ブレ」を起こす。つまり感動の根本を与える行為にも等しいわけですから、やはりそこには作者・演者の背景がとわれてしまうし、双方のコンタクトが要となる。そこに労苦があって当然ですし、これをちゃんとやらない限りは踊り手の身体がブレてくれない。逆に、そういったことにちゃんとスジが通っていれば、目に見える動き自体が定型ばかりでなくとも成立があるわけで、そこが「舞踏」をはじめフォーサイスやアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルのごとく、即興にも振付があるゆえんでしょう。
かく言う僕自身も、こ~やって・あ~やってということで巧くいったためしは一度もなく、練習曲だって、地稽古のなかでずいぶん寝かし、内心自分の踊りとしてやってみたいと思うところまで一旦稽古してから、もう一度こわして骨組みだけにまで戻さないと合点がいかぬ空気が流れてしまいます。ある学校で振付法を教えていますが、学生さんたちも皆、2分3分の振りをつくるのに何ヶ月も、時には1年でも困ったりケンカしたり泣いたりしながらやっており、それでも出来たときには人柄まで変わって感動を共有する。そこでの感動とは、作品がうんぬんということもさることながら、振付というコンタクトを通して、身体が生まれ変わる可能性を垣間見た喜びかと思われます。
踊りでなくとも芸術はすべからく身体を通して実現されます。デュシャンの便器だって身体行為の痕跡です。そして身体表現とは、芸術の原点であり、感じ・動くというプロセスの解体・再構築。それは嘘のない純粋な身体を求める追求の行為とあわせて、感受・感動のメカニズムをさぐるいうことに近いプロセスでは・・・。
時間をかけて、ひとつの心をとことん感受したところで、ある時、体の方がゆらゆら・がらがらと思いがけぬ変化を起こしてしまう。心が定着したところで身体が動き、はみだし始める。そのことが響きとなって、思い通りの格好をしているときよりもかえって本質をさらけだしてしまう。それだけに、身体を使って何かを語ると言うよりは、語り尽くしたあとに残響のごとくのこされた身体の有様こそ、趣ある景色となるのだと思います。逆に心のない身ぶりは、うるさくおしゃべりな割に興をそぎますし、嘘の言葉以上に空虚を伝えてしまうのでしょう。
「身ぶりは心のあまり」。この言葉をのこした初代・藤十郎のあと、近松は生身のパートナーをみいだすことができずに、ふたたび人形の世界へと戻っていったそうです。人形浄瑠璃における人形とは、ひたすら外側より訪れる心を受けとめ、形に反映させることに徹する身体です。そのような身体こそ役者や踊り手の目指すべきものと、近松は考え、大きな問いをのこしたのかもしれません。