それは、感動というよりも、深い思索の時間だった、と言わねばなりません。私たちは、どこから来て、どこへ行くのだろう。思春期のころに芽生えた、そんな命題が、色鮮やかによみがえってくるような体験をもたらしてくれたコンサートがありました。
 カール・ハインツ・シュトックハウゼンの来日演奏会『リヒト=ビルダー』、その、最終日(6月26日)です。

 入場時、広い会場の中央・コンソールには、すでにシュトックハウゼン本人が座っており、ある種の緊張と興奮が入り交じったムードで開演までの時が流れていました。
 しかし、客席が暗くなり、演奏が始まるやいなや、僕のなかに、パッと、明るい陽光がさしこんだような感覚が訪れました。

 第一部、曲は、コンサートタイトルでもあった『リヒト=ビルダー/光の日曜日・第三場』。総上演に7日間29時間を要する連作オペラ《リヒト》の最後に作曲されたパートです。
 フーベルト・マイヤーの伸びやかで透明なテナーに、リング変調がかけられたフルートとトランペットがからみ、バセット・ホルンが繊細にバックアップしていく感じは、理知的に抑制されながらも越境をこころみる、絶妙のバランス。そして、演奏者たちに与えられた、的確な身振りと、象徴的な言葉が並ぶ歌詞が、音楽の輪郭をさらに明確にしていきます。
 静かでいて、挑戦的なアプローチ。作曲者の見守るまえで、音楽という形式をとりながら、新しい時代への問いかけが成されているようにさえ、感じられ、まさに「音楽の現在」を垣間見たような体験でした。
 そして、第2部はシュトックハウゼン自身のオペレーションで、『光の日曜日・第2場』の演奏。50分あまりの時間、真っ暗な舞台奥に一条の光が射す中を8チャンネルのサウンドプロジェクションによって様々な声が飛び交い、その有様は、音の大伽藍。劇場が巨大な聖堂に変容していくような感覚です。
 しかし、僕らを包み込み、通り過ぎていく音は、決して挑発的ではなく、慎重に選び抜かれた、染みいるような響きの重なり合いでした。
 彼方から此処へ、此処から彼方へ。音は天使のシンボルのように飛翔しつづけます。そんな音に誘われるように、僕の心に、この文章の最初に書いた命題が、くっきりと輪郭を見せたのです。

 「私はどこから来て、どこへ行くのか」それは、僕らが意志を持って、この地上に生きる限り忘れるわけには行かない問いかけであり、自らの存在を一つの謎ととらえ、探り続ける態度へと導く、良心への道しるべだと思うのです。思春期の頃、僕はこの問いかけに出会い、己の存在するということにとまどい、畏怖をおぼえました。そして、この問いは、ベートーヴェン、ドストエフスキーやレヴィナスをへて、シュタイナーとの決定的な出会いを、さらには、踊りを通して「命あること」に向かい合い続ける、現在の生活に導いてくれました。そんな「問い」を、いまひとたびリアルに思い起こすことができたことで、僕は、あらためて芸術の力に感謝せねばなりません。

 僕にとって、シュトックハウゼンは、その作品の難解さと、主知主義より出発した、強烈な音楽的態度に、時に慄然とするような、彼方の人でした。しかし、今回の演奏会を通して、研ぎ澄まされた前衛精神による、「優しさへの挑戦」を感じ、彼もまた、此処に生き、彼方の天使へラブコールを送りつづける、ひとりの生身の人間であることを感じとることができました。
 どこまでも直感の奥深くへ旅し続け、なおも旅し続けるほかない、ハイマート・ローザー(
故郷喪失者)としての現代人。その、生々しい姿がそこにはありました。

 賞賛と揶揄のはざまで、常に己の直感を信じ、己の建築せるレールを走り続けようとする、一人の音楽家の態度に、不屈の「個」を感じとりながら、同時に、来るべき未来を信頼するようにと要請されているような感さえある、素晴らしい演奏会でした。