毎週クラスを行っていると、時折、ナビゲートしている僕の方が背中を押されるような練習に出会います。それは、上手下手ではなく、体を、時間を、大事に味わっている練習との出会い、自分で自分をグッと見つめている、とことん自分と対話していく気持ちで踊っておられる、そう思わざるを得ない集中力との出会いです。大げさに言えば、自己認識への道しるべとして、ダンスを、あるいは肉体との対峙を、位置づけるということでしょうか。

「決まった時間に決まった場所を訪れる。」
「気分や環境の変化に振り回されず、一つのことを続けていく。」
 踊りの練習とは、まず、そういったことからだと思うのですが、この、一見単純な行為のなかに、とても大切なものがあるように、僕は感じています。
 たまたま空いた時間を自分のために使うのと、確実に自分の為の時間を確保するのでは、大きなちがいがあるような気がしてなりません。仕事や友達づきあいや、時には家庭やパートナーからも一歩離れて、自分自身と正面から向かい合うという時間を定めていく。それは、わがままなのではなく、独立した存在として、客観的に他者に向かい合うための準備でもあり、私が私であるためのクールダウンなのだと思います。
 私が私である。そのためには、時間が必要です。その「あたりまえ」のことに、思いを集中させる時間を、肉体はあたえてくれます。
 肉体は、精神ほどに軽やかではありません。「簡単には動いてくれない」ことを通して、肉体は精神に待つことや受け入れることについて語りかけてきます。肉体との葛藤や対話を重ねながら、私たちは「本当に望むこと」が何なのかを見つめる時間を手に入れることが出来ます。人間には、そんな時間が必要なんじゃないでしょうか。
 そんな時間を毎週確保する、というライフスタイルは、どこかで「自立」ということに結びついているような気がしてなりません。一人で立つ、独立ということではなく、自ずと立つ、自立。それは、回路がつながる、エネルギーが通う、というイメージでしょうか。
 昔の人は、神さまに踊りを捧げたと言われています。踊ることによって、神さまの存在を感じ、その存在を愛でる。そんな時代から、受け継いできた「踊る」行為は、いま、命そのものに捧げる行為に変化しました。
 踊ることによって自らの存在をリアルに感じる、まずは自分自身を見つめるために踊る、そんな時代に私たちは生きています。私たちが最期に帰っていくところは、自己の肉体であり、日々の生活は、その上に成り立っています。この世に許されて在るということを確かめる鍵は、神さまではなく、私たち自身がにぎっています。
 そんなことを考えながらクラスをやっていると、上手下手を言う前に、100%自分に集中する時間をつくり「存分に味わう」ということをこそ、最大の基礎として、大事にしたくなってきてしまうのです。