ひとつの上演が終わったあとの稽古が、好きだ。観客もスタッフもいない場所。沈黙。そこで、ただひとり、「作品」を体から消し去る作業を行う。そんな練習で、冬を越し、花散る季節をむかえた。

 踊りは、見つめられることによって成り立つ。視線の中に立つ、ことによって、何かが終わり、何かが始まる。踊りの力が、見手・立会の心に呼吸されるように、踊り手の内部にも、まなざしの力が呼吸される。
 それが内部で動き始めていることを実感しながら、あらためて床を踏み、背筋に光を入れる。あるいは背中をゆるめ、抱えた想念を一つ、降ろす。こめかみの力をガクッと、抜いてみる。呼吸の音だけをたよりに、体軸をたちあげては、消す。たたき込んだ動きへの愛着を、消す。発汗のなかで生まれる、空白。この場所、この躰が、流れる時と「ともにある」、その確かさを感じることが、すべて。
 
 窓から訪れる外側の光は、ひときわ強くなり、佇まいを貫いて床に漆黒の影を成している。私の影。ヒトガタのブラックホール。影と対峙して、立つ肉体。
 体内の熱がチロチロとした火をはなつ。いかなる言葉をも焼き尽くし、踏みこえていく、熱の十字架。人間の内部にまどろんでいる、存在熱とでもいうべきか。その熱が、立つことを支え、影に拮抗し、呼吸を生み出す。呼吸は関係を生む。関係は現象を生む。

 タデウス・ゴラスに、こんな言葉がある。「私たちはみな平等です。そして宇宙とは、私たちのお互い同士の関係です。宇宙はただ一つの実体から出来ていて、その一つひとつが生命を持ち、一つひとつが自分の存在の仕方を自分で決めています。」

 私という現象。呼吸をする。1分に18回、年間25920回の呼吸は、太陽が黄道をめぐる日数に照応するという。連鎖、つながりゆくもの。どこまで?
 「彼方」を、感じながら、いつしかまなざしは人から天地に移る。天地に見つめられながら、「立つ」ことを我が身に問う。あたらしい出会いのために、また、ゆたかな再会のために、ゼロを穿つ。それは、同時に、真新しい導火線に、火をつける行為でもある。