自分では、まだ終活は早いだろうとは思ている。だけど、自分がどうやって人間としてのフィニッシュを迎えていくのかなということは、最近時々考えることはある。考えるというか、漠然と思うだけなのかもしれんけれどもね。人生に達観した思いや、哲学的な思いや思想的な思いは何もないんだけれどもね。ただ、ボーっとしながらというか、散歩したりしている時にもふと思う時はなきにしもあらずだ。
それに、どう考えたって、これから先、今まで生きてきた半分も生きんだろうということはフツーに思えることだ。これまでの半分も生きてしまったら、裕に100歳を超えてしまうではないか。還暦を越えた時にも、「これから先、今まで生きてきた半分も生きんやろうな」と思ったことがあった。その時でさえ、90歳ということになるのだからなぁ。いずれは人間やめなくちゃいかん時が来るんだろうなというのも、考えざるを得ないことなのである。
形あるものは必ず壊れるというが、人の命とて同じことである。それは、何も今の時代ではなくても、人がこの世に誕生して、知的要素として文字を生み出し、記録を残していくようになってからは、そんな思いが残され伝えられてきているのだ。日本ではことに、中世時代と言われる平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけては、中世文学というジャンルの文献でも示されているように、無常観というものの考え方が定着していたようだ。
それが、一つ熟した感じになったのが鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』であろう。これが13世紀から14世紀なのだけれども、生存期間を確認してみると、鴨長明と吉田兼好はおよそ100年ほどの時間の差異があり、重なってはいないのだ。
文章の感じや人生観等を観ていると、何だか、同世代で競い合っていたのではないかという錯覚に陥るが、そうではないようだ。むしろ、『方丈記』に、ほぼ重なるのが『平家物語』にも描かれている人生に対する無常観である。
無常とは、すべてのモノは生まれ変わり続けていき、同じままではいられないという真理を示す仏教の基本概念ということである。これは、人生のはかなさだけでなく、「変化し続ける現実をそのまま見る視点」として説かれている考え方でもあるという。
仏教では、あらゆる現象は生まれ、やがて変化し、いつかは滅びると説かれている。つまり、諸行無常という考え方で、これが13世紀初めころに、琵琶法師によって語り継がれた中世軍記物語の『平家物語』にあるものの捉え方である。平家一門の栄華から滅亡までを描写して言ったモノではあるが、「盛者必衰の理」という考え方が根底になる。
この世には常に万物が移り変わっているのだということで、これこそが世の中の流れということでもある。そしてそれは、それから800年を経た今も、変わらぬ世の道理でもある。
鴨長明はそんな『平家物語』の世界観の基づいて、自身の考え方をまとめたのではないのだろうかとも思う。そして、それをさらに吟味して、吉田兼好が『徒然草』を手掛けたのかどうか、それは分からない。とはいえ、こうした無常観はその後の文学的要素というか、人間の生きていくということは何かという哲学的命題にも抵触していったのだと思う。
ボクなんか、小林秀雄のかつて国語教科書の定番と言われた『無常という事』を読みこなしているわけではないけれどもね。だけど、この歳になってふと、「人として生きている意義と意味とは何なんだろうかなぁ」なんて言うことをふわっと思ったりもすることがある。それは、齢重ねた証でもあるのかなとも思うんだけれども…。まぁ、人間として達観はしていないし、何も極めとらんのだけれどもね。


