想い出のスポット、その4~業平橋、本所吾妻橋編 | (株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

(株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

ついこの間始めたばかりだと思っていたこの会社も、干支で言うとひと回りを越えて、15年目に突入してしまった。その間には、コロナ禍や事務所の引っ越しも含めていろいろなこともあったかな。そんなことを思うと、まあ、よくここまで持っているかなというところだろうか。

 社会人になって数年、その2月に都合7年近くいた三軒茶屋から、東京下町の墨田区業平の供給公社に引っ越した。東武浅草線の業平橋と都営浅草線の本所吾妻橋駅が最寄りとなった。業平橋駅は今は東京スカイツリー駅となり、その名の通りスカイツリーがそびえ立ち、その麓は「ソラマチ」と呼ばれて、様々な店舗が入っていて、約40年前の当時には、こんな街に変貌するなどと言うことは、まったく思いもよらなかった。

 ただ、業平橋住宅の隣の印刷会社やファミレス、そしてボクもよく行っていたラーメン店はそのまま存在していた。ここへ引っ越してから、結婚もして子どもも生まれて、家族らしい生活もしていたのだけれども、9年いたことになる。

 3階だったけれども、窓から見える親水公園は、子どもを連れてよく散歩したり走ったりもしていた。ここの親水公園の景色は変わっていないけれども、背景にスカイツリーがあることで、まったく違う印象になっていた。

 通勤としては、業平橋駅ではなくて、都営地下鉄の本所吾妻橋を使用することになっていた。その後転職して、あの『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー西崎義展が代表取締役となっているJAVNなんていう会社に移籍するのだけれども、今でいう超スーパーブラック企業で、朝から晩までどころか、深夜まで拘束されっぱなしなんて言うことも何度もあった。

 会社そのものは六本木にあって、それだけ聞くと華やかそうなんだけれども、その内実はとても過酷だったことは、当時の同僚の誰も否定しない😂。それこそ土日もないくらいの拘束され方。さらには、西崎代表が気が食わないと、殴られたり蹴られたり、胸ぐらつかまれたりということもあった。

 そんな中で4年ほど過ごしていて、やがて心身ともに疲弊していって、くたびれ切って苦労しながらも辞めさせてもらった。

 それから、暫くはボクより先に退社していた人が起こしていた制作会社などを手伝いながら、企業ビデオなどの構成などで、何とか生活していた。この頃に、文藝春秋の「Number VIDEO」の構成台本なども書かせてもらって、今思えば、その後のスポーツ出版関係へのベースが何とか出来ていったと言ってもいいであろうか。

 その後に、倒産してしまい今はなくなったけれども全通企画という編集プロダクションに入り、10年間在籍。そこで、自分の本の刊行もできて、その後に繋がったいうことでもある。

 そして、やがて業平橋を離れて、1997年2月17日に現在の亀戸7丁目の今のマンションに引っ越すことになるのだ。子どものことを思えば、ボクとしては6年生になるまで待ってあげるべきだと思っていた。

 だけど、ママ友と上手くいかないとか、誰々がどうだとか文句ばかり言う我儘な母親(まあ、言うならばボクの前妻ですがね(>_<))のせいで、2年生の途中で転校させてしまうことになってしまった。