過去の自分を振り返ってみることもあるけれども | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 このところは、何かの拍子に、過去の自分の日記帳を読み返してみたりということもしばしばある。20年前には何をやっていたのかな…、と思ったり。30年前のこの時期には、オレは何を考えていたのだろうかということを振り返ってみたくなることもある。まあ、ある程度は、年齢を重ねてきたからだということもあるのかな。自分の足跡というほどのものではないけれども「あのとき何をやっていたのかな…」「あの時、どんなことを考えていたのかな」ということを振り返るのは、悪いことではないと思っている。

 自分自身も、年金受給者にもなって、例えば偶数月の15日に信用金庫のキャッシュコーナーなんかで並んでいると「やっぱり、年金を貰えるというのはありがたいことだなぁ」としみじみ思ってしまう。そんな時にも、ふと、過去の物思いに更けることがある。

 今まで、大したことをやってきたわけではないけれども、それでも、何らかの形で社会に発信してきたこともあるとは思っている。社会的には、大した影響力はないにしても、何かを残してきたのだという自負もある。そして、そんな中で、自分のやりたいことも多少はやれたのかもしれないし、小さな自己満足と承認欲求は多少は満たされてきたのかなとも思っている。

 ボクとしても、自分の過去を振り返るというか、自らの歩みを見つめ直すことは悪いことではないと思っている。それはそうだ、ボクに限らず人間というのは、誰しもが自分の歩んできたことをベースとして次があるワケであり、経験値に基づいて次の行動を起こしていくのである。

 今さら、新しいことはそんなに学んだり吸収していくことに精力を注ぐ必要はないと思っている。だけど、知らないことは知っておきたいなという知的好奇心というか、そういうものは失せてはいないと思う。

 それに、自分の欲求や思いに対しては素直でいたいとも思っている。そんなことを思いながら、毎日を過ごしている。そうした中で、時に「そういえば、あの時オレは、何を考えとったのだろうか」ということで、振り返ってみたくなるということもあるのだ。

 それにしても、改めて言うまでもなく歳月の流れというのは早いものだ。ついこの間のことだと思っていたことでさえ、10年以上の年月が過ぎていたりする。現実に、ボクがこの会社をスタートさせたのも、もう12年も前のことだ。干支で言えばひと回りも前になるのだ。

 家の水回りをリフォームしたのも6年前になるし、コロナ禍で小学校に入学した上の孫も今度の4月で4年生になる。その頃生まれた下の孫も春からは正式に幼稚園に通うことになる。

 そして、2月は両親の命日が相次いであるのだけれども、爺さんは2003年2月9日に亡くなっているので、かれこれ21年を過ぎている。婆さんも去年7回忌をすませたのだけれども、今年で丸っと7年を経過し8年目となるのだ。

 その当時の自分の日記もまた、読み返してみた。少しだけ気持ちもしんみりとしてみた。