今の時代の象徴的な現象としては、芸能人やスポーツ選手など有名人の不倫糾弾がある。
確かに、いわゆる道徳的なことからすれば、婚外恋愛みたいな不倫ということは、肯定すべきことではないとは思う。ことに、子どもの存在ということを考えると、親が自分の両親ではない人と親しくしているというか、性的関係があるということについては物心ついた時には、ある程度の衝撃になるかもしれないからね。
だけど、こう言うとまた違う意見もあるかもしれんけれども、いわゆる不倫と言われている禁断の恋愛は文学の世界では、圧倒的に用いられてきた題材でもある。
神様も、男と女の間違いは大目に見て許してくれるんじゃないのかなぁ
かつて、俳優の石田純一も「不倫は文化だ」などと言って、顰蹙を買ったということも伝えられたこともあった。もっとも彼は「芸術的なことや文化的なことというのは、不倫のような要素から生まれることもある」ということを伝えたようである。それを、メディア的に要領よく切り取られて伝えられてしまったということかもしれない。
その石田純一の発言内容については、ボクも同意せざるを得ないというか、大いに納得する。というのも、日本を代表する作家の一人でノーベル文学賞も獲得している川端康成の代表作の『千羽鶴』や『雪国』なども、まさに不倫小説ではないか。
話はそれるが、谷崎潤一郎に至っては、ボクなんかは文学が芸術なのかエロなのかわからんところにあったと思っている。まして、個人的な生活の上でも、不倫を超えてエロ的な要素をいっぱい行っているわけで…。それが、文学として評価されていたのである。
そんな土壌だってあったのに、今の社会の人たちは、自分たちにとって全く損得に直接は関係のない、他人の不倫に対してどうして目くじらを立てなくてはいけないのだろうか、と思ってしまう。「そこまで正義なの、そこまで清く正しいの?」というのが正直なところだ。
これは、ボクなんかは間違った正義ではないかとも思っている。中野信子的に言えば、まさに「正義中毒」である。だから、不倫報道された人間が、謝罪会見をするのもおかしなことだなぁとは思っている。一体、誰に対して何を謝罪しているのだろうか。
謝罪するとしたら、当事者間だけで直接会って言えばいいのではないかなと思う。そして、当然のことながら、そこに至るまでにはお互いのいろんなプロセスがあるワケでねぇ。その是か非は別として、そうした中で成立していくことであって、他人は全く関係のないことである。だから、社会的にも、そんなことをあえて公表する必要もないのではないかなぁとも思っている。
今みたいに、そんないちいち不倫がどうの、なんて言っていたら太宰治はもちろん、佐藤春夫もそうだし有島武郎や田山花袋もそうだろうだろうけども、日本の文学は成り立っていかんかっただろうなぁと、しみじみ思っている。
だから、『ぼっぽや』(降旗康夫監督)で出てきた当初は、わざとらしくてあまり好きではなかったけれども広末涼子も、市川猿之助もしっかりと復活してきてほしいと思っている。それが、芸能界というものでしょう。まあ、広末に関しては、こうもスキャンダル続きになるということは、脇の甘さと生活感のだらしなさはあるのかもしれんなぁとは思うのだけれどもね。性的にだらしないと金銭や時間にもルーズだったり、平気で嘘をついたりするということもあるかもしれんけれどもね。
時代が違うと言えば、そうかもしれんけど、かの家康さんはよ~さん妾がおったらしいがね
それにしても、いちいち芸能人の不倫をあげつらって、みんながみんな、上辺だけ物凄いクリーンになって、どうするの…❓ というのがボクの考え方だけれど、こういう考え方は、間違っとるかなぁ( *´艸`)。



