思えばコロナ禍前のことだった。我が婆さん(まあ、私の母親ということですが)が、88歳の誕生日の前日に、丁度2年間の介護生活の末に自宅で亡くなって、今年の2月で七回忌を迎えることになってしまった。
ということは丸っと6年が経過したということになる。最後は要介護4~5というところを行き来していたのだから、ほぼ寝たきりだけど、とにかく施設に入ることだけはかたくなに拒否。しかも、ボケはなかったから、寝たままで目に入るもんが気になるらしくて、寝ながらようけ文句も言っとった。
結局、自宅で訪問介護のヘルパーさんに来てもらうという形だったのだけれども、3食と下の世話、入浴などはヘルパーさんにお願いしていたが、ごみ捨てや買い物、掃除といったことは、週4~5回、ボクが婆さんのマンションに行って処理するという形でもあった。実質、ボクが介護をしていた形になっていたのだけれども、そんな生活もちょうど2年間だった。
婆さんが亡くなったときは、その日に限って「今日はここで泊まろう」と思っていたので、まさに虫の知らせだったのかなとも思っている。亡くなった事実の確認は、ある程度覚悟はできていたのでショックというよりも、ホッとしたというのが、正直なところだった。それに、さほど苦しまずに逝けたのはよかったと思った。
これらが、婆さんの描いた天井画
その婆さんの七回忌ということで、徳島の聖憧寺という寺にボクと、兄貴のところの家族と、岡山で嫁いでいるウチの娘夫妻と孫たちが集まった。このお寺さんの天井画7×7=49枚を婆さんが描いたということもあり、とても縁も深い。徳島へ足を運ぶのは、婆さんの納骨以来、5年ぶりということになった。
ボクは前日に岡山に入って、そこから娘のオットの運転で阿波市のお寺に向かった。朝早い時間に出て、瀬戸大橋を渡ってから、途中の道の駅「くるくるなると」というところで、孫たちを遊ばせたり、ちょっと早いお昼を食べたりした。
そして、予定時刻の30分ほど前の12時半過ぎにはお寺に到着。しばし、談笑してからお経が始まり、さらにはお墓の前でも「おにゃおにゃ~」をしてもらって婆さんを供養した。そして、もう亡くなって20年になる親父のことも偲んでみたりもした。
ということで、慌ただしいながら、七回忌を終えて、兄貴たち名古屋チームと我々岡山チームは別行動となり、そのまますぐに岡山に戻った。
結局、三日半孫たちと過ごしていたということになったのだけれども、やはりボクとしてはいい時間だったと思えた。そして、我が娘ながら、いろんなことを気にしながら、いい妻であり母親やっとるなぁと思えたことだ。そこで、婆さんには一つ伝え忘れたことがあったと思った。
「あんたの孫は、心配しとったかもしれんけれども、今、いいお母さんしよるでよ。安心したって…」



