今年で親父が亡くなって、23年という歳月が流れたことになるのか… | (株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

(株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

ついこの間始めたばかりだと思っていたこの会社も、干支で言うとひと回りを越えて、15年目に突入してしまった。その間には、コロナ禍や事務所の引っ越しも含めていろいろなこともあったかな。そんなことを思うと、まあ、よくここまで持っているかなというところだろうか。

 2月9日は大正12(1923)年生まれのオヤジの命日である。普段は、あまり意識はしないけれども、この寒い時期の2月の建国記念日前に、ふと思い出すこともある。まあ、ボクにとっては尊敬できる父親とか、「父の背中を見ながら育った」などという思いは全くない父親でもあった。まぁ、愛知県知多半島の常滑市民病院の副院長まで務めたということで、社会的には評価されていた部分はあったのかもしれないけれども(苦笑)。

 2003年のことなので、もう23年も前のことになるのかと思ってしまった。79歳だったから、「えっ!? オレもあと10年で追いついてしまうがね」と、改めてビックリしているというか、自分も歳とるはずか…とも思う。こういう時に、しみじみと過ぎ行く歳月の早さを実感してしまう。

 親父の人生は、まあ約80年の人生、ほとんど人に頭を下げることもなく、ほぼ好きに生きてきたのではないだろうかとは思う。徳島県の吉野郡板野町(現阿波市)で生まれて、阿波中を経て官立の山口高等学校理乙へ進む。世代的には戦火が進んでいく中で学生時代を過ごしていたということで、高等学校も繰り上げで卒業となっている。

 その後、当時は官立高等学校から帝国大学というラインはほぼ確約されていたので、何とか名古屋帝国大医学部に滑り込んだようだ。ただ、自分でも「ワシは低空飛行じゃったわ」と言うように、そんなに優等生ではなかったようだ。だから、万一に備えて、長崎医専(現長崎大医学部)という選択肢もあったようだ。

山口高等学校時代の親父の遺品のアルバムから

 その高等学校での青春というか、生活は多くのその世代の人たちと同様に、その後の人生の支えというか、糧と言うかエネルギーになっていたようだ。だから、寮歌祭には欠かさず出席していた。ボクの中では「親父=寮歌祭」というイメージがあるくらいだ。ボクも、小学生の頃は毎年お盆の時期に開催されていた東海学士会の寮歌祭に連れていかれていた。そんなこんなもあってか、韻音律が主流の寮歌の曲調はその頃から刷り込まれていた。ボク自身が文語的な言葉が比較的好きなのも、そんな背景もあるのかもしれない。そういう意味では、唯一ボクが親父からの影響を受けていることかもしれない。

 結局、在学中に終戦を迎えて、そのまま何年かインターンとして名大病院なんかにいて、その間に同郷のボクの母親となる女性と結婚している。見合いの日まで、逢ったこともなかったけれども、逢ってみたらそこそこ美人ということですぐに◎になったようだ。

 そんな感じで、名古屋市中村区の日赤病院に勤務して、そこの職員住宅というよりも長屋という方が合っているのかもしれんが、そんなところで生活していた。ボクも兄もそこで生まれている。医者とはいえ、当時は貧乏生活だったようだ。名大共済会にツケの借金も沢山溜まっていたらしいということを、母親から聞いたことがある。

名古屋帝国大時代から日赤に赴任したての親父

 やがて、常滑市民病院が設立されて、そこの皮膚科医として赴任。新舞子駅が最寄りの、知多半島の知多町(現知多市)で生活をすることになる。ボクが5歳になる前に引っ越したと思う。だから、ボクは幼稚園は1年しか行っていない。

 その後は、常滑市民病院を全うして皮膚科部長~副院長にまでなった。まあ、当時はいい時代で、地元ヤクザの組長が患者にいて、盆暮れの付け届けが凄かったかなという記憶がある。それだけではなく、薬品メーカーからの届け物含め、当時の我が家には「お歳暮お中元の部屋」があったくらいだ。

 もっとも、大正生まれの親父だから、家庭のことなんかは一切顧みない。休みの日は自分のしたいことだけやって暮らしていたという感じだったのであろう。およそ、自分のことしか考えていなかった親父は、家で家事を手伝っていたことなどは見たこともない。給料袋を最初に口空けて、自分の取り分だけ取って、残りをボクの母親に渡していたようだ。今の時代だったら全くのダメオヤジということになるだろう。

ゴルフと野球と寮歌祭、ウチの親父はそれだけしかなかったんじゃないかなと思う 

 

 まあ、そんな親父だったけれども、病院内では相手が医者であろうが医局の事務員であろうが看護婦(師)であろうが、分け隔てなく対等だった。そういう意味では、下の人からは慕われていたのかもしれない。たとえ相手が院長であろうが、おべんちゃらやおべっかは一切使ったことはないが、その代わり出入りのプロパー(製薬会社の営業)や業者でも、おべっかを使う人間は好きではなかったようだ。常に「ワシ」が中心なので、忖度とか、お世辞を言うということはなかった。まして、患者でも、おべっかを使われると「何言うとるんじゃ」ということになっていて、今の時代だったら、総スカンを喰っていることだろう。

 だけど、まぁいい時代を好きに生きたいい人生だったのではないかと思う。ボクたち兄弟の進路などにも一切無関心だったことも、母親は嘆いていたけれども、ボクとしては。今となっては有難かったと思っている。

 そんな親父と晩年、(たまに帰省した時に)家で一緒に呑んでいたこともあったが、「もしワシが名大行けんで長崎行っとってみぃ。原爆で死んどったかもわからんし、お母さんとも逢うとらんし、オマエなんかおれへんぞ」なんて言っとったことがあったけれど…。そんなこと言って威張られてもなぁ、と思った記憶を思い出した(苦笑)。