先日、WOWWOW配給の映画『前科者』の招待状を戴いていたので、六本木一丁目にあるアスミックエース(株)というところの試写室へ行った。六本木交差点のすぐそばなんだけれども、ボクとしては6月に足を運んだ俳優座劇場以来、今年2度目の六本木だった。
ボク自身、六本木なんていう街は、自分自身でもそんなに似合うとは思っていないんだけれども、実は六本木に勤めていたんだよね。しかも、もっとも社会人として様々な吸収力と対応力があって、いろんなことを学んでいかれる30歳前後の時期である。
六本木交差点から、飯倉交差点へ向かう東京タワーをド正面に捉えながら通勤していた。夜の賑わいも含めて、まさに、「東京の中枢におるぞ」と思わせてくれる、田舎者にとっては、とてつもなく快感なロケーションのところに映像制作会社の職場があったのだけれどもなぁ。
そんな地で、朝から晩まで、場合によっちゃぁ、次の日の午前3時まで会議漬けみたいな生活をしていた時代があったのだ。会議から解放されたら呑んだくれて、下手したら、朝まで呑んでちょこッと仮眠してそのまま出社みたいなアブノーマルな生活もしていた時代でもあった。
そりゃあそうなるであろうというのも、もっともだった。と言うのも、その会社の主はもっとアブノーマルで、今の時代ならばスーパーブラック企業ということになるのだろうけれども、そんなことはまったく関係ない人間だったからねぇ。そう、ボクたちくらいから上下10~15歳くらいの層では知らない人がいないのではないかと思えるくらいの、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーとして一世を風靡していた西崎義展が主だったからだ。
その会社に4年ほど世話になったというか、そこにおったというか、まあ、PENTHOUSE VIDEOなるレーベルで、ビデオをリリースしてその販促宣伝みたいなことをやる係りだったのだけれども…。社員は、およそ自分の意志や意図は関係なく、自分でプロモーションしたら、その後に胸倉掴まれて殴られたり蹴られたりとか…。その翌日には、裸銭でくしゃくしゃの1万円を2枚貰ったりとか、そんな生活をていた4年間(実質は、その後に築地や溜池へ引っ越しているので2年半)があった街でもある。
そのことが、今のボクを形成している糧になっているのかどうかということは、正直わからない。ただ、会社そのものの資本背景としては日本コロムビアや松竹、バンダイなんかも絡んでいたし、徳間康快もちょこっと絡んでいたのだから、信用はしていたのだけれどもね。内実はまったく違っていた。
ただ、一つ言えることとしては、そんな環境下での仕事に対処してきたという事実は、自分が何かしなくてはいかんという思いのバネになったことだけは確かである。大学を卒業して、何とか映像ビジネスという場に身を置くことが出来るようになっていたボクにとって、当初、西崎義展は偉大な輝く人物でもあった。ところが、その下に入って暫くしてからは、その異常さを体感していくに連れて「オレは何をやりたいんだろうか? 何をしていくのがいいのか?」ということに対して、煩悶し続けていた時間でもあったのだ。
そんな時間を過ごしていた六本木という街。久々にプラプラ歩いてみたら、何だか知らんが妙に懐かしかった。人にとっては、過ぎ去ったことは、結構、辛いことでも想い出になってしまうんだなぁということもしみじみ感じたりもしていた。
「ギロッポンでシーメ食ってから、ザギンの方へ行くから」
な~んて、ワケの分からんことも言っていたなぁ。
こんなところでも、呑んだくれていたなぁ…、洋楽なんか好きでもないくせにね(苦笑)
そういえば、昔はここにキングコングがいたような気がする。


