やはり、高校野球は特異なスポーツイベントであり日本の継承文化。だからこそ… | (株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

(株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

ついこの間始めたばかりだと思っていたこの会社も、干支で言うとひと回りを越えて、15年目に突入してしまった。その間には、コロナ禍や事務所の引っ越しも含めていろいろなこともあったかな。そんなことを思うと、まあ、よくここまで持っているかなというところだろうか。

 今年の残念さは、何といっても新型コロナウイルスの影響で、春夏の甲子園の高校野球がなくなってしまったことだ。まさに、太平洋戦争での中断以来、復活して70年以上の歴史を有し、時代とともに発展してきた高校野球としては前代未聞の事態になってしまったのだ。

 そして、そのことに悲嘆したのは当事者である高校球児だけではなかった。むしろ、それを毎年楽しみにしていた多くの高校野球ファンの大人たちだったのかもしれない。

 今さら言うことでもないかもしれないけれども、イベントとして捉えてみたら、高校野球はスポーツという分野では日本最大の人気コンテンツになっていると言っても過言でない。つまり、日本人の文化の中では、なくてはならない存在になっているのだ。高校野球そのものが“季語”としての役割を果たすほどになっている。
 だらこそ、高校野球はさまざまな場で語られる。それぞれが、それぞれの思いで意見することで、人々が熱くなっていく題材にもなっている。そこには、対象が人間としてはまだ成長途上の高校生がメインの存在になっているということもあろう。
 しかし、その一方で、高校野球を「汗と涙の物語」、「青春のドラマ」として大人たちが美化していくことによって、あえて目を向けないでいた部分があったことも確かだ。


「高校野球の仕組みはどう考えても不合理である。にもかかわらず日本に不可欠な存在であり続けている」
 そう捉えているのは『高校野球の経済学』という著書のある慶應義塾大の中島隆信教授だ。そして、その不合理性を「天然記念物」であり「無形文化財」でもあると称している。とはいえ、これは称賛であって、嘲っているのではない。
 考えてみれば、今どき、坊主頭の丸刈り(去年あたりから、丸刈りを廃止していこうという学校も増えてきてはいるが)で、朝から晩までボールを追いかけ続ける高校生は希少価値だ。そして、つねに大人に見られていく中で、好むと好まざるにかかわらず、「マナーの正しい高校生」を演じていく。演じるという表現は、もしかしたら語弊があるのかもしれないが、そうしたマナーの良さが、時に、非現代的であると感じることも少なくない。それは、学校のグラウンドなどを訪れたときにも、実感することでもある。 


 中島教授は、高校生活の中で一般的な高校生として授業に費やす時間は約3000時間。これに対して野球に費やす時間は約4000時間にも及ぶという。それだけでも、野球部の生徒は野球をしに学校へ来ているということになるともいえる。現実に、多くの高校球児の意識はそうなっているのかもしれない。
 ただ、それもまた、高校野球の断片的現象として現実なのである。だからといって、「高校生の本分は勉強である。野球は部活動なのだから、ほどほどにすべきだ」などと野暮なことを言うつもりなどは毛頭ないし、言う必要もない。
 いわゆる進学校と言われている学校であっても、野球部で朝から晩まで野球を意識していって生活していれば、日々の生活は野球漬けになるのが普通だ。正直、勉強などしている時間はさほどないというのが現実である。そんな中で成績もトップクラスなどと言うことは、よほどの人間でない限りあり得ない。
 それでも、誤解を恐れず言えば、「勉強は、その気になればいつでもできるけれども、甲子園を目指して野球をやるのは高校生活の2年半しかない」ということである。だからこそ、高校時代に野球に心血注ぐことは大いに意味があるのだ。そして、それを見つめて支え、応援し続けている大人が存在しているのである。
 だから、高校野球は面白いのだ。その甲子園が奪われてしまった今年は辛かった。