言葉を拾っていくと、名言も珍言も失言さえも、その背景が面白い | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 本の企画としては、「名言集」というジャンルは、形を変えながら、ずーっと存在し続けている。
 古くは、戦国武将や歴史的偉人達の名言から、軍人、政治家、経済人。さらにはスポーツ選手や監督、芸能人など様々なバージョンがある。

 以前に、『名言集』シーズというのを手掛けたことがある。これは、主にスポーツ選手や文化人・芸能人たちのメディアを通じてのオフィシャルコメントを拾ったものだった。ただ、その言葉を拾うだけではなく、その言葉が発せられた背景を自分なりに洞察して半ば自由にその背景を推測して、1000字前後にまとめたものである。
 だから、よくある取材物ではない。

 だけど、取材物以上に、自分自身でその背景を掴んでいるか、もしくは推測できるだけのものがないといけないとも思っていた。

 だから、これはあくまで推測の余地があり、そこには自分の思いも混在されていくことによって、モノカキ仕事として成立していた。
 そういう意味では、面白い仕事でもあった。

 ところで、その発言者が言葉の意味や重さを本当に意識しているのか否かということは、実はとても大きな問題だとも思っている。また、本当はそうは言っていないのに、言葉の受け止め方でそういう理解をされてしまっているということもあるようだ。

 人は、調子づくとついつい「受け狙い」も含めて、過剰な表現や極論を言ってしまうことがある。それが、そのへんの呑み屋での話ならばいいのだろうけれども、少なくともメディアを通しての発言とか、オフィシャルの場であったとしたら、そこは命取りにもなりかねない。それを失言というのだろうが、実は昨今、それなりの人にその失言が多いようで…。
 そういうことも、意識していかないといけないと思っている。ボクも、稀ではあるけれども、講演のようなことを依頼されることがある。そういう際には、やはり多少なりとも言葉を選んで使わないといけないなぁということは意識する。

 今、世の中がこんな事態になっていて、それぞれの人が、いろんな立場でコメントを発したに求められたりしていることも多い。

 また、今の時代だからSNSなどで、簡単に自分の意見や考えを発信することも出来る。別にそのこと自体は悪いことではないのだろうけれども、そういう中で、自分が独善的正義や自己理論をふりかざしとるヤツが沢山おることは確かだ。しかも、そういうヤツの大半は匿名であることは、やはり残念なことだなぁとは思う。

 別に、意見を言うということは悪いことではない。だけど、人を批判して自分が優位に立っている気になっているヤツのコメントに接すると、そいつの人間性が垣間見えてきてしまう。なんだか、ぎすぎすした感じの世の中だと感じるのは、ネットという現物が見えにない場で、対面的に相手の顔を見ないで言葉だけが勝手に発せられているところにあるのかもしれない。

 だから、言葉の大切さ、そして、恐ろしさをもっとそれぞれが思わなくてはいけないのではないかとも思っているのだ。