半田高校の100周年と、高校野球の第100回大会は同じ年になる | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

気がつかなかったけれども、母校半田高校が2年後に100周年を迎えることになるらしい。正直、ボクとしては、もっと歴史が長いと思っていた。

そうか、ついこの間100年記念事業で云々かんぬんとやっていたのは、大学の方だったか…、と思い出した。

 

ということは、高校野球の夏の選手権の第100回大会と半高の100周年が同じ年に重なるということになる。これはえらいことではないか…。

なんだか、大変なことのような気がしているけれども、実は何のこともなく過ぎていくのだろうなぁなどと思っている。

ここで少し、半田高校の沿革を辿ってみた。

1919(大正8)年 愛知七中として開校

1922(大正11)年 半田中と改称

戦後の学制改革を経て1948(昭和23)年4月1日に現校名となる。

またその頃、県立半田高等女学校が知多高校、半田市立高女となっていたのが半田南となったが、やがて、それらを統合した。

さらに、農業課程と商業課程をそれぞれ分離独立して半田農と半田商ができる。

やがて内海分校が独立し、武豊分校が定時制だったものが、全日制となり、これもやがて独立していく。という過程を経ている。

 

ということは、半田農と半田商は分家的な要素があるが、半田工は独立校として存在していたということである。つまり、半田市はどちらかというと工業都市だったということが言えるのだろうか。そもそも、武豊線は、日本で2番目に古い鉄道でもある。そんな街の歴史を知って、「ほほーっ!」と感心したのは、割と最近のことである。

知多市新舞子というところから半田の高校に3年間通っていたのだけれど、実は、半田市の歴史や文化についてはあまり知らんということを知った。半田の山車祭りは有名で、「山車丸くん」なる地域キャラクターがおるということも、最近知ったくらいだから…。

 

高校野球や高校スポーツに深く接していて、高校野球は地場産業的な要素があるということを伝えつつ、その自分があまり地元のことを理解していないということに、改めて勉強せないかんということを再認識した。

 

方言もそうだけれども、文化というのは、その場におらんとわからんことも多いでねぇ…。改めてそんなことを思う今日この頃である。

 

エンドメッセージ

最近新聞の部数が激減していると言います。新聞そのものが、危機的状況にあるとさえ言われています。

そんな中で、先日、毎日新聞でちょっといい記事を発見しました。それは、陸上の棒高跳びのリオ五輪代表選手だった澤野大地が「学校と私」というコラムの中で述べていたことです。

「競技前に選手村の食堂で一人で昼食を取っているとき、先生方や家族、お世話になった人、応援してくれた世界中の人たちの顔が浮かび、涙が出てきました。心の底から、幸せだなと思ったんです」

という件でしたが、一人で飯を食っているときに、しみじみと思えることって、実はその人の本当の心の思いが表れるものなんですよね。そんなことをしみじみと思っていました。

試験に落ちたり、女にフラれたり、仕事がうまくいかなかったり…そんな思いも、一人で飯食いながら噛み締めることも多かったなぁと、改めて思ってしまいました。一人飯は、さまざまな思いを増幅させてくれる効果もあるのです。