核エネルギーと祈り | 今村健一郎(愛知教育大学 哲学教員)のブログ

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ブログなんてただの暇つぶしだと思うの

 今年も8月が巡ってきた。8月6日、9日、15日は日本にとって特別な日付である。それは戦後72年を経ても変わることがない。私にとって戦争は生まれるずっと前の出来事である。そして私は特に平和主義者というわけではないし、平和について日々考えているわけでもない。それでも8月になると先の戦争のことを思わずにはいられない。私たちの親の世代は空襲の経験者であり、祖父たちは外地で戦闘に従事していた。そして、それらの体験談を私たちはおりおりに聞かされてきたものである。私たちの世代にとって、先の戦争はさほど遠い過去ではない。

 先にも言ったように私は特に平和主義者ではないし、ましてや、原理的反戦論者でもない。国家が武力に訴えねばならない事態がありうることを私は認めている。しかしそんな私でも、こと核兵器に関しては、強い抵抗感を覚える。おそらく他の日本人と同様に、私にとって核兵器は「格段に威力の強い兵器」という以上の意味をもっている。それはきっと、通常の兵器にはない、なにか特別な象徴的意味であるに違いない。今日はその象徴的意味について、思いを巡らせてみたいと思う。

 

 原子爆弾は(そして原子力発電も)ウラニウムや(ウラニウムの核分裂反応によって生じる)プルトニウムといった重ウラン元素の核分裂反応を利用している。自然界に存在するウラニウムは恒星の終焉時に起こる超新星爆発によって生み出された元素だそうである。それは現在の太陽(および太陽系)の前の世代の恒星の爆発によって生み出されたのである。すると、それは地球や太陽の誕生よりも前に、すなわち、およそ50億年以上前に生み出された物質だということになる。

 つまり、ウラニウムは、50億年以上前の恒星の大爆発によって生み出され、そのときのエネルギーを内に蓄えている物質なのである。それは太古の巨大エネルギーの塊であり、それを創りだすことは、無論、人間の為し能うことでは到底ない。 しかし、人間はそのエネルギーを開放する「鍵」を手に入れることができた。その結果が核兵器であり原子力発電である。

 

 では、核エネルギー解放の鍵を手に入れることで、人はそのエネルギーに対する支配をも手に入れたのだろうか?無論、そうではない。そうではないということは、スリーマイル、チェルノブイリ、福島の例を見ればだれの目にも明らかである。人がどれほど全身全霊を傾けようとも、人の力を超える自然の力を思い通りに完全に支配することなどできないと考えておいた方がいいに違いない。

 

 8月になると、日本に暮らすわれわれは平和を祈る。もちろん、祈るだけで平和が実現するわけではない。平和の実現へ向けた継続的な活動が不可欠である。そんなことはもちろん分かっているのだが、それでもわれわれは祈る。

 この祈りというのもまた、何らや「鍵」を開ける試みのひとつであるように思えないだろうか。平和の実現というのは、とても巨大で達成不可能な事業のように思える。戦火にまみれたわれわれの歴史を振り返ると、とりわけそのように思える。それを実現するには戦火に抗う巨大な力を、われわれには能わぬほどの巨大な力を要するように見える。平和への祈りというのは、その巨大な力を招来し、開くための「鍵」を求める想いのように私には思えるのである。

 

 おのれの力では為し能わぬことを地上に実現させたいと願うとき、人はおのれをはるかに超える巨大な力を頼みとし、その力を地上にもたらす鍵を探し求め、その鍵を開こうとする。核エネルギーの利用も核兵器の惨禍なき世へ向けての祈りも、実はこの一点において同じなのではないだろうか。

 冷ややかな見方をするならば、それらはいずれも、卑しい無力な民草が自分たちの生殺与奪の権を握る強大な君主の前にぬかづき、おのれのささやかな願いを願い出る姿に似ていなくもない。

 

 核の力によっておのれの保身をたくらむ冒険的独裁者も、核なき世界を祈る平和主義者も、どちらも巨大な力の前にひれ伏しつつおそるおそる請願の言葉を口にするかよわい民草にすぎないように私には思える。そして、かく言う私自身にしても、きっとどちらかの側に身を置くひとりであるに違いない。

 

 50億年前の恒星の超新星爆発は核エネルギーを生み出した。そして、数十億年後に起こる太陽の超新星爆発は、地球を飲み込み、太陽系全体を吹き飛ばすことであろう(そのはるか以前に、人類など跡形もなく消滅しているのだが)。天体の巨大な力は卑小なわれわれの願いなど知ることもなく、われわれを吹き飛ばす。だとすれば、偉大な力を恃み、それに祈ることなど、所詮むなしいことではないだろうか。人間の願いは結局人間のものでしかない。

 

 最初の問いへ戻ろう。核兵器がもつ象徴的意味とは何か?それはあまりにも巨大で、それゆえに人間の意などともはや全く無縁な、その意味で<無情>な力を象徴しているのではないかと思う。それはわれわれの理解が及ぶものでもなければ、われわれの理解をもとめることもない、われわれとは全く無縁で無情な宇宙の姿の象徴である。