この社会の公正性について | 今村健一郎(愛知教育大学 哲学教員)のブログ

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 この世の中、この社会は、存外にも概して公平にできているのではないかと思ったりする。人は不遇な経験をすると、世の中が自分を公正に遇していないと感じ、悲しんだり恨んだりするものだが、そのような人だって、少し反省してみれば、自分は決して不公平な処遇を受けたのではないと、あるいは、あからさまに不公平に遇されてきたわけではないのだと思いいたるのではないだろうか。

 公正性・公平性(fairness)についてはロールズを筆頭にいくつもの議論があるのだが、そういった学問上の議論は脇に置いて、各自がこれまでの経験に照らしつつ、「自分は公平に遇されてきただろうか?」と問うてみれば、自分は概ね公平に遇されてきたと思いいたるのではないだろうか。

 

 もちろん、不公平な処遇を受けてきた人びとというのが現に存在する。そういう人たちがいるということや、いると知りつつ世間がそれを放置していることは、たしかに由々しきことである。しかし、ほとんどの人は公平に遇されていると言ってよいと思う。それゆえ、自分が世の中から公平に遇されてきたかどうか不明な人には、さしあたり自分は公平に遇されてきたと信じるべき一応の理由があるだろう。

 

 自分が公平に扱われていない、不当に扱われていると言う人は、「自分の周囲の人びとが自分の期待するように振る舞ってくれない」と言う代わりに「世の中は不公平だ」とか「世の中は自分に対して不当だ」と言っているにすぎないように思う。しかし、世の中が自分向きにあつらえられたものではない、なんていうことは、だれにとっても当たり前のことである。この世の中はだれか特定の人のために造られたものではない。それはプーチンやトランプのような権力者にも妥当することだ。彼ら権力者ですら、「世の中は生きにくい」と一再ならず嘆いてきたはずだ。世の中が自分向きではないこと(それは当然である)と、世の中が不公平であることとは、区別さるべき異なる二つ事柄である。両者を混同してはならない。

 

 人はみな、自分が望む処遇を世間から受けたければ、どのように行い、どのように振る舞うべきかを実は知っている。その知識はたしかに蓋然的であり、絶対ではないが、しかし、われわれが生きていくには十分なほどには蓋然的であり、それゆえに信頼に足る知識である。その知識を自らの体験に照らすならば、なるほど自分は概ね公平に遇されてきたのだと、ほとんどの人はそう判断するであろう。

 

 世の中がどうして概ね公平なのか、どの程度公平でどのあたりが不公平なのか、という問題はここでは扱わない。しかし、ただひとつ、人は不公平を悪とみなしており、公正性を志向する傾向を有しているということだけは指摘しておきたい。

 

 自分が不公平に遇されていると思う人は、少し反省して、決してそうではなかったということを見出すといい。それでも、やはり、自分は不当に遇されたと思うならば、たかが一敗地にまみれたとして、それがなんだというのだ、世界の終わりではないと思うといい。自分の願うことが実現しないならば、願い方を変えて、正しく願えばいい(その正しい願い方を人はちゃんと知っている)。正しく行い、正しく振る舞えば、望む処遇は得られるであろう。正しく願う者にとって、この世界は悪い世界ではない。