夢 | 今村健一郎(愛知教育大学 哲学教員)のブログ

今村健一郎(愛知教育大学 哲学教員)のブログ

ブログなんてただの暇つぶしだと思うの

夢を見た。2015/5/13(日)朝9時の夢。起きてすぐ夢の内容とその分析のようなことを書き留めた―普段はそんなことしないのだが。その書き留めた内容をそのまま以下に転載する(寝ぼけて書いたため、表現がややおかしかったりするが、それを修正せずにそのままで)。

夢の内容
 全日空?の大型旅客機が並ぶ格納庫(旅客機のサイズも格納庫のサイズも実物に比べると小さい)に小さいプライベートジェットも並んでいる。これでアメリカあたりに商談に行ったりするんだよなと、それを見ながら思う。私は格納庫の中を歩いている。
 ひとりの整備士がいた(日本人だがアメリカに住んでいるそうだ)。まだ30代半ば。二人乗りバイクレース(そんなものは実在しないのだが)で日本を制し、外国のレースも勝ったことがある人。バイクの整備からジェット飛行機の整備に転じた彼に興味をそそられ、「やはりバイクもジェット機も同じ内燃機関で動くから共通するところがあるんですか?」などと質問する。レシプロよりジェットの方がエンジンの整備がしやすいそうですねと言おうとしたが、いつからか会話に参加していたT課長(会社員時代の上司)が、安楽椅子(蜘蛛の巣が張っている)に座った状態で、何か他の話をしだした。エンジンの整備には興味がないようだ。
 その場所は、もはや格納庫ではなく、私の(八王子?)実家の客間(実物よりずっとずっと立派な洋風の邸宅)。内部を綺麗にリフォームした後でしばらくしてから、京王帝都電鉄ともうひとつの関連のなんとか電鉄(なぜか航空会社ではない)に売却され、支社のようなものとして使われている(住宅街の中にあるのに)。邸宅を売却したお金で父は新しい家を買ったのだな、もう実家は他人の手に渡ったのだなと思う(かといって、特に感慨にふけるでもない)。
 場面変わる。コンクリートの建物の中(大学?)。青学所属の哲学者である入不二さんと刑罰論。入不二さん曰く、罪はそれが償われることがあるからこそ罪である。罪は自身の内側から「償われるべきだ」ということを生み出す。罪は償いを含意する。彼は建物を出て、どこかへ行こうとする(帰宅?)。私は議論を続けるべくあわてて靴を履きかえて後を追う。
 二人並んで歩きながら議論。私は彼の一連の議論の言葉じりをとらえ、「それは物象化ないし実体化だ」(カテゴリーミステイクだ)と指摘するが、それに続けてすぐに、しかしそれは入不二さん一流の表現法(レトリック)であって、そのことを読者はよく承知しているから誤解の余地はないとか議論の妥当性を破壊するものではないといったフォローのようなことも言った。角を曲がる。「たとえば入不二さんがバットで私をめった打ちにして、私がそれを訴え出なくて、それで事が止んだらどうなる?(つまり、泣き寝入り)」という問いを投げかける。それに対し、罪は自らの内側から「償いをすべき」という観念を自ずと生み出すから、実際に償われることのない罪も償われるべきである以上、やはり罪として存在し続ける、と入不二氏。この「罪は償いの観念を生み出す」という表現に対して、私は「物象化」あるいは「実体化」と指摘したようだ。
 罪のある状態が償いによって以前の状態に回復されるという一連の事の流れを、入不二さんは著書の中で記号論理学を用いて説明していた(そんな著書は無論、実在しない)。その著書の該当箇所のイメージ。論理式が描いてある。「罪はなぜ罰せられなければならないか」を主題とする罪と罰の形而上学(刑事の形而上学)。素晴らしいアイデアに思える。ここで目が覚める。

分析
 私の夢に珍しく、実在の人物・場所(T課長、入不二氏、実家)が出てくる。それだけに「はっきりとした夢」に思われる。
 夢の中の私の感情は、終始穏やかで起伏がない。最後に出てくる哲学的アイデアを素晴らしいと思う。「すばらしい!」そう思って目が覚めたようだ。犯罪と刑罰の形而上学、「なぜ罪は罰せられるべきか?」という問いに対して形而上学の流儀で答えることの可能性を現実に考えていたので、それが夢に現れたのではないだろうか。
 飛行機の格納庫から実家へ、そしてさらに、大学のようなコンクリートの建物から路上へ。この場面転換は私の人生の道程の縮図か?(前夜に読了した『ボヴァリー夫人』―これも人生の道程を描いている―がこの夢に影響しているのかどうか不明だが、どうもあまりそんな気はしない)。
 さて、もしこの夢が私の人生のこれまでの道行きの縮図だとすると、最初の格納庫は何なのか?そこから外に出て旅立って行くというイメージゆえに、格納庫はこの夢の出発点になっているのか?T氏と入不二氏の二人の人物は?上司と先輩、どちらも自由な人物との印象。どちらも好印象、ただし性格や人物はもちろん異なる点が多い。では元バイクレーサーの整備士は?ヘリの整備士から大手メーカ-の会社員へキャリアを転じた遠い親戚の年長の男性がモデルになっているのか?バイクから飛行機へ。それはサラリーマンから哲学屋へと転じた私自身?登場人物にも場所にも穏やかな好ましさを感じる(なぜか男ばかりで女が登場しない)。夢の中の私の感情は起伏なく終始穏やか。否定的なところがない夢。刑罰論についての論文を書かねばならない、そのためのよいアイデアがひとつ与えられた。その思いが目覚めをもたらした。

 通奏低音のように流れる静かな肯定感。好ましい先輩(会社の上司・哲学業界の先輩)がいる悪くない人生。そして罪と罰。
 悪くない人生であった。そして、この世界では罪は償われねばならぬという形而上学。私がこれから罪の償いをすべきだということか?それとも、私はもう償ったということか?(都合よく解釈すると、「お前はもう償ったじゃないか」というお告げ?)
 悪くない人生。罪が償われるべきこの世界。穏やかな肯定感。意外にも私はこの人生をこんな風に穏やかに肯定しつつ日々暮らしているのかもしれない。強い情念の起伏はない。そのことは心地よく、そして、好ましくすらあるようだ。