平康頼 | 辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

辻村寿和Collection「寿三郎」創作人形の世界

創作人形作家辻村寿三郎の作品を皆様にご紹介いたします。


ジュサブロー館の創作日記
ジュサブロー館の入り口の鉢植えの蓮

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撮影 Canon KissX
EF100mm F2.8 マクロUSM

平康頼
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

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撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF100mm F2.8 マクロ USM

1146年~1220年左大史・中原頼季(なかはらのよりすえ)の子。

後白河院の近習として北面に仕える。

十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。

保盛は長寛元年(1163年)正月24日付で、越前の国司に任ぜられており、
18歳の康頼も越前に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。

検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官入道と称された。

ジュサブロー館の創作日記
一輪目に続いて二輪目のつぼみが開いてきました、
明日には咲きそうです。

平康頼
ジュサブロー館の創作日記
2009年制作

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撮影 Canon EOS 5D Mark II
EF24-105mm F4L IS USM

鹿ケ谷の山荘で藤原成親・西光・俊寛らの平家打倒の密議に参加。

しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、
俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。

信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号した。

配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すことを思い立つ。

一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。

治承2年(1178年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった。

康頼は帰京後、伯母が尼となって身を寄せていた東山の雙林寺で、仏教説話集「宝物集」を編集執筆する。


ジュサブロー館の創作日記
一輪目の蓮の花

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撮影 Canon KissX
EF100mm F2.8 マクロ

平家滅亡後1186年には源頼朝によって、
頼朝の父義朝の墓を弔った平康頼は阿波国麻殖保の保司の職に任命された。

康頼は京より三人の家人を伴い森藤の地に下向した。当時康頼はすでに41歳になっていた。

康頼は保司庁、鼓楼、六坊寺を建て、熊野神社を勧請し、鬼界山補陀洛寺を建てたが、
この寺はその名が示す通り鬼界ヶ島の俊寛を弔うものである。

又、1187年には後白河法皇から賜与された閻浮壇金の
小さな千手観音を安置する寺として慈眼山玉林寺を建立、
源平の戦いで死んだ者を源平の区別無く供養した。