自分の言葉に無頓着な人はいるものです。言葉は,その言葉の意味のみを持つものではありません。言葉は,その先にある「別の何か」を引き出します。自分の言葉に無頓着だというのは,その「別の何か」を引き出す(引き出している)ことに無頓着だということでもあります。それは,同時に,自分が何を言いたいのかということにすら無頓着だということでもあります。

 

1つ例を出しましょう。「私はケーキは嫌いだ」という言葉からもいくつかのものが引き出すことができるでしょう。ほぼ確実に言えるだろうことは,「私にケーキを食べさせるな」というメッセージです。それだけでなくて,「私にケーキの話をしないでくれ」とか,さらには「私の前でケーキの話をするな」というようなことも含まれてくるかもしれません。もしここで,ケーキが嫌いな人AがAに隠れてケーキを食べていた人Bを見とがめて,「なぜ私には何も用意してくれないのか」という人がいれば,一瞬眉をひそめる人は少なくないでしょう。「私はケーキは嫌いだ」といったではないか,と。そこでおそらくAは言うのです。「ケーキは嫌いだが,お菓子一般が嫌いだといったことはない」と。Bが隠れて食べていたのが,Aの「ケーキは嫌い」から,「私にケーキの話をしないでくれ」とか,さらには「私の前でケーキの話をするな」というようなメッセージを受け,むしろAに配慮したが故だったとしたらどうでしょう。それでも我々は規範的に「BはAに対して,『何かおやつ食べるつもりなのだけれど,君は何かいるか?』と聞くべきだ」といえるでしょうか。もちろん,Aの「ケーキは嫌い」という言葉が発せられた文脈に依存するのですが,Aが自分のメッセージに無頓着だったこともまた無視し得ないようにも見えるのです。

(2)に続く〕


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