私も自宅にいる時間が増えましたので,折を見て,これまでの「負債」を返していきたいと思います。もっとも,それは,必ずしも現下の苦しい状況を改善させる特効薬などではまるでないのですが。

 

ときに,「権利侵害だ」という訴えは,「お気持ちだろ」などというあられもない非難を受けることがあります。しかし,同時に,法的に見て「権利侵害だ」という訴えが,その実「私は不快だ」に過ぎないものがあるのも事実です。そうすると,必ずしも法的知識を有していない一般人が両者を混同してしまうことも理由のないことではないかもしれません。ましてや,法や権利を「明文の規定」にしか根拠を見出し得ない人であればなおさらでしょう。

 

まず,大前提として,権利侵害の背後には必ず「不快感」が存在しています。例えば,他人にケガをさせられた人は,「痛い」という感覚を基礎として,行為者に対する不快感を募らせるでしょう。これは立派な傷害罪を構成する(刑法204条)のであり,それは「身体の健康」という法的利益(つまり法益)を侵害しているからです。同時に,「不快感」を感じない,つまりその法的利益に対して法益性を放棄している場合には,「被害者の同意」があったものとして,傷害罪は成立しない(か,その違法性が阻却される)ことになります。つまり,「不快感」なき「権利侵害」はあり得ないのです。

 

そうすると,次は,「不快感」から「権利(法的利益)侵害」へどうやって昇華するかが問題になります。端的には,「それが法的な利益と認められるかどうか」だということになるのですが,それでは答えになっていないでしょう。考えるべきは,「法的利益」とはどのようなものから構成されているか,です。

憲法の人権宣言部分は,歴史的に勝ち取られてきた「権利のカタログ」の一部です。著名なものとして,平等,表現の自由,財産の自由,身体の自由などが実体的な権利として考えられていますが,それらはすべて「個人の尊厳」(憲法13条参照)へ収斂していきます。つまり,当該の不快感が,「尊重されるべき(人格ある)個人」であることを否定されている場合だといえるかもしれません。伝統的には,民事法学において「人格権の侵害」と呼ばれてきた場面です。

1点気を付けなければならないのは,この「人格権侵害」といえる場面は,ある程度の普遍性を有しているということです。つまり,極端に感受性が高い人や極端に感受性の低い人を基準とするわけではなく,また個々人の具体的な趣味嗜好を前提とするものでもないということです。例えば,未成年者がワイン(より具体的にシャトー・ラフィットでもいいです)を飲めない不快感を「人格権侵害」のように議論することはないのです。そうでなければ,ワインでなければいいのか,日本酒ではどうか,というような「不毛な」議論を惹起しかねません。本質はそこではない。多くの文脈では,「アルコール飲料」まで抽象化されます。同時に,ワインが嫌いな成年者が「ワインを飲めないのは人格権侵害だ」と主張するのも,具体的な趣味嗜好を問題としていない以上,十分にあり得るのです。「自分がどうか」は個別具体的な紛争解決においては意味を持つこともしばしばありますが,ある程度一般性を持たせた議論では,個人の趣味嗜好など議論の邪魔になることの方が多々あるとすらいえます。

 

このように考えると,「不快感」なのかどうかというのは,もはや議論の俎上に載せる必要がないし,それが出てくることで過度の具体化や過度の抽象化すら招きかねません。ただそれが「尊厳ある個人の人格を侵害するのか」だけを問うべきなのです。その時には,「尊厳ある個人」はある程度思想史的に裏打ちされた「目指されるべき個人」が前提になっていることもまた確認しておく必要があります。


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