日本において,「法(律)」というと,「刑法」や「憲法」といった,いわゆる「公法(公権力と私人の関係を規律する法規範)」がイメージされがちです。しかし,法学の世界においては,むしろ典型は民法であると説明されます。今回はその理由を探ってみたいと思います。

 

最も大きな理由は,日本の法学がとりわけ大陸法(あるいは西洋法)の影響を受けたからだと考えられます。既に示したように,農耕民族では公法を,牧畜民族では私法を重視しがちだという見方があります(拙稿「『距離』と抽象性」参照)。もしこの見立てが正当だとすると,農耕文化である日本や中国などは公法的であり,欧米では私法的だということになります。そのため,わが国は,公法文化の土壌でありながら,明治時代の「不平等条約改正」のために,私法文化を持つ西洋法の法理論を「接ぎ木」したという評価ができるかもしれません。

西洋法にとって,私法というものこそが法であったわけです。日本が西洋法を継受(受け継ぐ)ことで,日本の法理論・法学説も西洋法のそれとなりました。そして,法学部でも,「民法は法学の入門でもある」と説明されることになりました。実際に,民法の「法律行為」の理論は行政行為(いわゆる行政処分)などにも波及し,その思考の根幹をなすこととなりました。

 

他方で,このような「歴史」とは別に,「実質」も見る必要があるでしょう。もっとも,この問題は,「法」にどのような役割を担わせる必要があるのか,あるいは「社会秩序」はいかにして形成されるのかという問題に依存するところがあります。つまり,伝統的な理解であろう「法とは我々の権利を擁護し,それによって社会秩序を形成するためにある」というような理解であれば,なるほど民事法こそが法でしょう。なぜならば,その法秩序は人々の社会実践の中にある「合意」を基礎とするからです。

しかし,もし,法を「権力者が被支配者に対してなす広義の命令規範」であると捉える立場に立つと,民事法が法の典型であるとは言いにくいでしょう。民事法の基礎にあるのは市民の法実践ですが,上記の立場は非常に「公法的」であり,トップダウン型の法認識だからです。権力者がいなければ「法」はないと言い換えてもいいかもしれません。

ですが,この点こそがこの立場の「弱点」です。「権力者」なくとも「法」はあると考えることができるためです。その典型は国際法であり,国際法においては各国を統合するための明確な「公権力」を持ちません。しかし,それでも「法」はあるとされるのです。

 

我々の法認識と近代の啓蒙思想は切っても切れない関係にあります。世界史や公民の授業で,これらに触れることはまさしく「素養」であり,欠かすことができないのです。


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