今日は成人の日ですね。実は,本ブログでも「成人」や「未成年」に関する話題は何度も取り上げています(例えば,「法と年齢」,「観念に『基準』を設定できるか」,「18歳成人制の持つ意味」など)。あまり屋上屋を架すのは好みではないのですが,これを機に「まとめ」をしておきたいと思います。

 

18歳成人制が2022年4月1日から動き出します(もっとも,未成年飲酒禁止法,未成年喫煙禁止法上の「成年」は相変わらず20歳とされています)。つまり,2022年4月1日時点で18歳または19歳である人たちは,4月1日をもって,誕生日でないにもかかわらず,成人となります。それは,3月31日までは「未成年」として(典型的には親である)親権者の庇護を受けていた人たちが,4月1日になった時点でその庇護を(法的には)失うということを意味しています。

このことは,一見すると,異様さを感じさせます。昨日までは守られていたのに,1日過ぎただけで守られなくなるというのですから,その1日にどれだけの意味があるのかは問題とならざるを得ないでしょう。しかし,法的に見れば,そのことは大しておかしくはないと言わざるを得ません。もともと判断の明確性を旨とするのが法です。個別に判断をすることの煩雑さは法制度として耐え難いものがあります。そうであれば,その1日を何であれ基準にして判断せざるを得ません。

すでに誕生日というもの自体がこのような性質を持っています(もっとも,例えば,1月14日誕生日の人が1つ年をとるのは,1月14日になる直前(つまり1月13日の最後の時点)です。拙稿「年齢の数え方」参照)。つまり,1日(より厳密には日付が変わろうとするその一瞬)で受けていた庇護が失われることに変わりありません。したがって,このような取扱いがされることにはそれほど問題がないというべきでしょう。

 

ただ,法的に見て「成人」とは,単に成人年齢に達した者という形式的な判断だけで成立しているわけではありません。むしろ,それを支える実態的考慮を伴っています。それは,「十分な情報収集・整理能力と判断能力」です。つまり,20歳なりあるい18歳なりというのは,社会生活を送る上で必要な情報収集・整理能力と判断能力を備えている(はずである)というわけです。これこそが立法事実なわけです(立法事実については,拙稿「立法事実と司法事実」参照)が,果たしてこの立法事実が是なのかという問題は残り続けます(もっとも,諸外国の多くが18歳には成人としているところを考えると,法を通じた国の意思表明として「わが国の18歳は未成年とせざるほど幼い」ということは恥ずかしくてできないでしょうね。もっとも,その「恥ずかしさ」に「実態が伴っているか」あるいは「単なる見栄でないのか」を検討することは当然に必要です)。


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