どのような分野にも「結果」を重視すべきか,「過程(プロセス)」を重視すべきかというような議論はあります(法学であれば,刑法における違法性の議論での,結果無価値と行為無価値という議論はまさにこれですし,学部学生時代に聞いた文学部の心理学の授業でも似たような話があったと記憶しています)。そして,「成果主義」のように,現在は,「結果」に重きを置いた説明がされることが多くあるというのは,我々の実感するところでしょう(なお,司法試験改革の中で,このような「(合格という)成果主義」から「(教育という)プロセス主義」に移行しようとしたのは記憶に新しいところです)。しかし,ここにはある意味での語弊があるように思われます。

 

我々法学の世界においては,結論もさることながら,最も重視されるのは,「結論に至る論証」です。もちろん,紛争当事者にとっては,「理由」よりも「結論」(例えば,有罪になるのか,無罪になるのか,執行猶予が付くのかどうか,死刑になるのかどうか,あるいは,損害賠償をしなければならないのか,離婚になるのかどうかなど)が大事でしょう。それは,彼(女)らにとっての人生の岐路ともなり得ます。しかし,法学ないしは法理論にとっては,「その判断が公正か」とか「その判断は一般的妥当性をもつか」といった面も重要なのです。つまり,法的判断は,その紛争当事者だけのものではなく,同じような別の事件についても同じことが言えなければならないわけです。

 

このことは,法律の世界だけに当てはまるものではなく,政治の場面でも言えるでしょう。とりわけ「法治国家」を標榜するならなおさらです。でなければ,人治,しかも支配者の好悪で決するという,極めて「不公正」な,あるいは「予測可能性を欠いた」判断での生活を,我々は強いられることになるのです。とりわけ法律家が場当たり的な解決を嫌うのは,このような側面があります(その意味で,法律家の命脈は,公正性や予測可能性にあります)。

 

しかし,人々は,「説明」をめんどくさがり,延いては嫌っています。それは,自分の判断を(うまく)言語化し得ないという知性の拙劣さもあるでしょうし,場合によっては,それが好悪判断であることを自覚しているのに,その「好悪」判断だと見られると「(いわゆる)批判」されると思い(込んで),説明することを「不利」だと考えるからなのかもしれません。しかし,「不利」なら自らが改めるか,相手を説得するかの途しか残されていません。その時に,「結論」だけ言われたところで,それこそ「声の大きな者」に従うことや「長いもの」に巻かれることを余儀なくされるわけです。それは結局,自分自身で,自我を殺しているのと同じです。なぜなら,「自分で考えていない」から。それは人間の特徴とされる高度の知性を否定しているのです。


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