この社会で起きることには、人知の及ばない部分もあります。例えば雪崩に遭遇するとか、地震や火山の噴火などなど必ずしも(精度の高い)予測が可能なわけではないものがあるのは認めざるを得ません。

では、そのような「人知が(必ずしも)及ばない」、いわゆる「災害」に遭遇し、被災した場合、その被災した人に何らかの「責任」はあるのでしょうか。もっとも単純な意見は、「自然災害なのだから仕方がない」というものか、「そんなところに(住んで)いたのだから自業自得(自己責任)だ」というものです。前者に対しては、「あまりに運命を信奉しすぎている」との「(意思決定論における)非決定論」からの反論があり得ますし、一方で後者には「何でもかんでも人のせいにし過ぎ」という反論をし得るでしょう。

 

大昔、フランツ・リストによって「最良の刑事政策は最良の社会政策である」と言われたことがあります。これはいわゆる新派刑法学の発想で、犯罪というのは行為ではなく行為者の問題である(故に、行為者を教化改善しなければならない)と考えるのです。つまり、人間として未熟な状態に置かれたのだから社会としてそれを教化していく必要があると考えたのです。この立場からは、犯罪とは実は社会のせいでも起きたということもできます。つまり「自己責任」に収めきれないのです。

そうすると、何が起きるか。犯罪事実を行為者に帰属できないのではないかということになり、刑罰というのが(法的)制裁ではなくなるということです。社会の失敗で起きた(のかもしれない)のだから、「その人のせい」ではなくなるのです。

つまり、自己責任というのは、「帰属」を平たく言っているということも言えるでしょう。帰属の理論にはいくつかの規範的問題が隠れている以上、「自己責任」という言葉それ自体は「帰属する(できる)」以上のことは言っておらず、その規範的基準を何も示していません。

 

心理学的には、2つの問題があります。1つは「公正社会仮説」と呼ばれるもので、「被害者があんな目にあったのは、過去に悪いことをやっていたからであり、罰が当たったのだ」という思考です。他方で、不必要に加害者を責めようとする厳罰思想についても、加害者を遠ざけようとする「エラー管理」と、加害者が自分と同じ人間ではないと思い込もうとする「非人間化」によって説明されます(なお、いずれのリンクも日本心理学会『心理学ミュージアム』より)。

これを帰属についての規範的判断のレベルで捉えようとしても、それは決して正当化し得ないものだと言わざるを得ません。たとえ、人間がそのような心理的傾向を持つのだとしても、その傾向をそのまま是認するようであれば、それはただの「自然状態」に過ぎません。法はそれを「人為的に」変更するのです。

 

法が自己責任を捨てきれないのは、この「帰属」の判断を必要としているからです。ただ、「誰のせいでもなかった」というのは認めなければならないでしょう。昨今の法的判断には多く「誰かに責任を」という形で考えられがちで、無理やり「帰属」を観念しているように見えるところがあります。それは、言い方を変えれば、無理やりに自己責任の範囲を広げているということなのです。