我々は、(一応)今という時間を生きています。この「時間」については、既に先人たちの多くの業績があり(典型的には、ハイデガー『時間と存在』があります)、私がそれらを踏まえた上で何かを言うというのは、本業の哲学者でもない私には荷が重すぎます。(広義の)法律家である私に言えることは、法律と関係のある部分についてのみです。
例えば、刑法の授業において次のようなことを聞くことがあるでしょう。「刑法は、民法と違って静態的に財産を保護している」と。この言葉の背後には、あるいはときに明示される形で、「民法(財産法)は取引の安全を保護している」という理解を前提にしています。
しかし、これが本当かどうかは疑わしいのです。民法の「取引の安全」というのも、例えばAとBだけの問題であれば、取り消されたり無効化されたりすることはざらにあります。むしろ、取引の安全というのは、この「無効」な取引の後に第三者Cが現れ、関与した場合です。典型的には、Aが脱税などのために財産隠しを狙い、その所有する不動産甲をBに売った体にして、その所有権登記のみをBに移した(民法94条1項により売買契約は無効)ところ、経済的に困窮していたBがそれを奇貨として、A・B取引が無効であることを知らないCに甲を売り払った場合、Cは甲についての所有権を取得するというものです(民法94条2項)。詐欺取引は民法上も刑法上も違法なものと考えられますが、民法では「取消し」になっている(民法96条1項)のは、あくまで被害者が「これでいい」と考えた場合にわざわざ契約を否定する必要はないからであり、「取引の安全」が理由になっているわけではありません。
法は一定の状態についてのみ評価の対象としています。確かに事実としては「動き」の中にあるとしても、その「動き」の結果(ないし1コマ1コマ)を切り取ってそこに法的評価を加えるのです。殺人を例にしても、「人が死んでいる」からしか出発し得ません。「生きている人が死ぬ」というその一連を評価の対象にしているのではないというべきです。いわば、「写真を見て判断している」。生と死の間の谷を「あぁ、谷がある」とは認識できないのです。「生」があり「死」があり、その時間的な連続性をもってそこに谷を推定しているにすぎません。この理解は、数学における「線は点の集合である」という理解と一致します。法はこの「点」しか評価できない。しかし、「点」の評価のために、「線」を見るのです。いわば「線」というコンテクストをもって「点」の法事実的評価を加えるのです。
今日は3月31日。明日は4月1日です。カレンダーをめくらなければならない。3月30日が31日になるよりも、3月31日が4月1日になる方がその時間の断絶は大きいように思われます。1枚ずつめくる日めくりカレンダーではなく、月単位のカレンダーや手帳をめくることが多いからなのかもしれません。都内の桜は散り始め、ますます「断然」を感じてしまいました。



