(1)で引用・参照したインタビューで特に目を引くのが、「ウケたこととモラルとしてどうかってそもそも別の話」だという点です。
笑いとユーモアを同視するという厳格な立場に立つとして、それは「人生の矛盾・滑稽(こっけい)等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持」である以上、実は同じやり取りの中でも、「視点」を変えれば、その捕捉範囲はいかようにでも動かし得、この定義の中に収めることも、逸脱させることもできます。抽象度を上げれば上げるほど、捕捉範囲を広げれば広げるほど「ユーモア」になり、具体性を突き詰め、捕捉範囲を狭めれば、「ユーモア」ではなく「攻撃」だということもできるのです。
そうだとすれば、(無論、以前から言われてきたことではあるけれども)ユーモアを解すること自体が高度な知性を要求します。かといって、「冗談に過ぎない」という言い訳が時にむしろその人の攻撃意図を露わにすることもあり(拙稿「『冗談』・『悪ふざけ』という弁解の持つ意味」参照)、その使い方自体容易ではありません。
モラルや公序良俗のようなものを強調すれば、笑いは消滅します。それと同時に、「笑顔は本来攻撃・威嚇の表情である」という説が思い出されます。他方で「笑うことは健康に良い」という(俗)説もあります。そうだとすれば、まさしく、「毒を以て毒を制す」というような様相であり、笑い自体が「劇薬」だということなのかもしれません。
少々鬼面人を驚かすようなことを言えば、「安直な論理一貫性よりも、緊張に満ちた矛盾にこそ知性が宿る」ということもあります。社会現象についての論理の貫徹は、ある一方の要請のみを突き詰め、他方の要請を切り捨てることにも繋がってしまう。裁判所はこういう時には「諸般の事情を総合的に考慮して」とか、「社会通念上相当」などという言葉を用いることで、その判断過程を包み隠してしまうけれども、そこにはやむを得ない面もあるのです。
綱引きでは、両端の引く力が同一である場合、綱は緊張し、これほどなく「安定」するのです。一方が強くなった時にはじめて他方を飲み込んでしまう。天秤にしても、両端の重さが同じになってはじめて台と平行になるのです。バランスとはそういうものです。
笑いにしても、それを「笑う」ためには仕掛けた側と受け取る側の双方に同じだけの「矛盾」に対する認識が必要になります。「マイノリティ」は,時に,「逆差別」になるほどの優遇があってしかるべきだし、同時に、その「マイノリティ」こそが顕著に特徴づける共通項を,「弱点であると認識してなお寛大な態度で楽しむ」こともあり得てしかるべきです。
忌避すべきは、他方の要請を「(社会)正義」の名の下に、「一方的」になることです。また、「仲間内の論理」に終始すべきでもない。それは、上記の「綱引き」で言えば、「緊張」を破壊し、他方を「飲み込もう」とする力が働いていることを意味します。
しかし、他方でまた、「同じ認識・知性」を持たない者同士では「笑い」が成り立たないのだとすると、classify―(階級的に)分類することが起きる危険をはらんでもいるのです。そしてまた「分断」の契機が生まれる。安易な統合を求めようとすると、安易な分断を生むのと同じです。
ただの趣味の領域であれば、自己の「好み」だけに従えばいい。しかし、何事かを発信した時、その「好み」はその領分を越え、社会的色彩を帯びます。それは、笑いの発信者も受け手も同じです。
〔2018年1月5日加筆〕なお、星新一『進化した猿たち The Best』(新潮文庫)の「あとがき」には、「論理の飛躍になるかもしれないが、笑いとは、普通とはなにかを知る経路でもある。」という記述がみられます(同書290ページ)。
〔了〕

