例えば、我が身を顧みず、他者を利する行動ばかりしている人がいるとします。果たして彼は「正義の人」でしょうか。実は、「自分を不利におく」という意味で、彼は「エゴイスト」です。そして、井上達夫『共生の作法』(創文社・1986年)は、このような「正のエゴイスト」ですら、正義の人ではないとします。なぜなら、正義の原理は反転可能性にあり、エゴイズムは反転可能性(つまり、否定しようとする立場に立ってなおその理を是とし得るか)に反するからであるとします。

エゴイズムの土台は「私だから」です。上記の正のエゴイズムも「私だから不利(献身的)になるべきである」という意味でエゴイズムであり、「私だから有利になるべきである」という負のエゴイズムと同質なのです。確かに、正のエゴイズムは一見すると、「正義の人」ですが、それは実は「(自分を含む)人々に有利となるから」という意味で、また別の「エゴイズム」に支えられているということが言えるでしょう。

 

ある政策が正義に適っているかを考える際、反転可能性は重要です。井上達夫教授があるテレビ番組にて「共謀罪に無条件で賛成する者は、もし、共謀罪を共産党が自由に使っても文句言えない」という主張を立て、それに対して「共産党が政権を採ることなんてあり得ない」と反論していた人が散見されました。上記の前提を踏まえれば、この反論がいかに的外れであったか理解できるでしょう。「現実にそうなる」かどうかは正義の理論とは関係ありません。(本来)男性が女性になることがないように、あるいは老人が少年になることがないように、「あり得ないから(彼らを)不利に(あるいは有利に)扱う」というのは、実はエゴイズムであり、また「支配」の論理です。この論理に従えば、言うまでもなく、「○○(属性)だから排除する」ということを可能にします。

 

そういえば、共謀罪の時によく政府説明等で使われたのは「普通の人は大丈夫」でした。「普通の人」は「大多数の人」に言い換えられるとしても(拙稿「普通」参照)、何をどう切り分ければ「大多数の人」を決し得るかは別途問題になり得ます。その時に反転可能性を問うことが有用です。

エゴイズムでは「私(たち)だから」以上の理由を提示し得ません。そして「私(たち)はあんた(たち)にはなれない」と言い出せば、そのエゴイズムは隠しようもなくなります。そこでは勝手に自分(たち)を「普通=大多数」に設定している誤りがあります。それは厳密な調査によってのみしか保証されていないからです。

 

エゴイズムは別のエゴイズムに対抗できません。まるで分別のつかない子供が「嫌だから嫌なの!」、「したいからしたいの!」と言っているようなものです。このような子供同士が次何をするかと言えば、ヒステリーを起こし泣きわめくか、手をあげる、暴力をふるうかというのが相場です(少し成長すれば、相手を無視するというのもあるかもしれません)。

我々は子供を諭せるような立場にあるでしょうか。

〔参考拙稿〕「同じ理屈で


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