多くの日本人は、法律というと、民法や刑法のように、条文として「書かれた」ものをイメージすることでしょう。それは、日本が成文法国であるということを実感として示しているということでもあります。
 
しかし、日本で妥当している法はそれだけではありません。「法の適用に関する通則法」はその3条で「公の秩序又は善良の風俗に反しない慣習は、法令の規定により認められたもの又は法令に規定されていない事項に関するものに限り、法律と同一の効力を有する。」と規定し、民法92条は「法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。」と定め、商法1条2項前段は「商事に関し、この法律に定めがない事項については商慣習に従」うとしています。このように、実際の法規範として「慣習」が利用されていることもあります(拙稿「慣習法について」参照)。ましてや、民法897条1項は、「系譜、祭具及び墳墓」といった祭祀財産の承継(つまり所有権移転)は慣習に従うべきとしています。
慣習が大多数の人々の事実上の行動様式である以上、法はその意味で普通の、つまり大多数の人々に受け入れられている規範意識をその根拠にしているということができます。逆に、法律があったとしても、それを大多数の者が守らなければ、その法律(厳密には個々の条文)は事実上ないものと同じです(いわゆる「赤信号みんなで渡れば怖くない」状態です)。これはまさしく、人々の規範的行動様式こそが「実定規範」であり、「実体法」だということを示しています。そして、これが法の「民主主義」的側面を基礎づけているのです。
 
また、法律には、「国家権力を動員・行使する」という側面があります。例えば、民法によって損害賠償請求ができるとしても、それは裁判所による判決を得、民事執行に至って初めて意味があります。また、犯罪行為についても、それに対して裁判所により有罪判決が出、検察官の指揮により刑が執行されて初めて法が実現されます。それはつまり、法を示した判決ですら「紙切れ」に過ぎないのだということです(しかし、判決は事案に即した具体的「法」を示すものだとはいえます)。法の果実は執行にありというのは、まさしくこのことを示しています。
同じことは公法の世界においてもいえます。例えば許可などは、確かにこれこれの要件を具備した者は行政庁の許可を得てこれこれのことができるというシステムですが、この許可というのが具体的なレベルでの法をなしています。そして、自らのなそうとすることが許可などのシステムにかかっている場合、許可要件を備えて申請をすることが「公権力の発動」させるという側面を有しているのです。
このように見てくると、法には公権力を発動させるトリガーとしての役割があり、そこで例えば訴訟や行政への申請のように一定の「手続き」が要求されます。つまり、法には「公権力を発動させる手続法」としての側面があるのです。そして、この手続きを経ない限りは公権力の介入を(原則)受けないという意味で、「自由主義」の側面があるのです(ただ、許可のような場面は少しニュアンスが変わってきます)。
 
この2つの観点を備えたとき、法の変遷というものに1つの光が射します。一方で人々が行動が先行して法ができる場合があり、他方で政府が先行して法律を制定してそれに国民がついていくことで法が形成される場合があるのです。日本においては、前者の例が譲渡担保であり、後者の例が自衛隊の存在の合憲性です。また、後者には、ヨーロッパでは死刑の廃止があり、日本でこれからそうなり得るのが集団的自衛権の行使です。
このように、法の形成には大多数の人々の実践や了解がある以上、その法が形成されることが不都合だと考える人々、つまり少数派は、自らの見解が多数派を形成できるよう、声を上げ続け、多数派の人々の意識改革を図るしかないのです。
もし、政府が少数派である場合、政府は法の執行を続けることで人々に法を根付かせることができます。それは時に人々の意に反する場合もあります。そうなると、国家の歩む道は4つしかありません。1つは、政府が人々、つまり民意に従って行動しなおすこと、2つ目には、民意によって政府を倒すこと(選挙かどうかは関係ありません)、そして3つ目は現政府・国家と決別し、新たな国家を設立する、つまり「独立」すること、最後に4つ目が政府・為政者が民主主義を破壊し、独裁を敷くことです。民主主義が機能しているというのは、4番目以外の方策がとり得るということを指しているのです。そして、従来の国家観で望ましいとされたのは1つ目と2つ目なのです。

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