例えば、いとこや甥・姪などの勉強を見たことがあったり、あるいは家庭教師をしている大学生などは、英語の勉強に付き合うとき、教える相手方が、友達の会話なのにですます調(いわゆる敬体)で訳をするのを目にしたり耳にしたりすることがあるでしょう。私は、それに違和感を持っています。確かに、問題集などで解答・解説に訳文が載っているときに、敬体で書かれた訳があったりし、そこまで違和感がないかもしれません。しかし、それが「言語」であることを考えたとき、そして言語が人のコミュニケーションの手段であることに思いを致したとき、やはりそれは「自然に」理解されるべきだと考えるのです。
もちろん、学習の一環として言語・語学を考えたとき、いきなりそのようなことを要求するのは難しいでしょう。簡単にいえば、初めの頃は、辞書に書かれた単語のいくつかの訳語の中から適切なものを選ぶので精一杯でも仕方ありません。しかし、ある程度慣れてきたり、簡単な文章であれば、なるべく自然な日本語に直したいところです。
これはまさしく直訳から翻訳へという流れです。直訳あるいは逐語訳というのは、単語の意味や文法を1つずつ確認するというのには意味があります。しかし、日本語に直すとニュアンスが上手く出ないこともあります(例えばone of the bestなどを「最上のうちの1つ」と訳するのは必ずしも上手くありません)。そういう時になるべく自然な訳を当てようとすることは、自らの言語力の向上に役立ちます。なぜなら、それは翻訳される言語と日本語の両方にセンスが必要となるからです。その意味で、「完全無欠な翻訳」はあり得ないのかもしれません。
それでも、やはり、友達同士の会話文のようなものを敬体で訳す感覚は理解しかねます。もちろん、日本人の場合には、例えば「先輩後輩」や「同僚」のように、外国人ならファーストネームやニックネームでフランクに話すような場面でも、敬体が用いられることもあり、一概に言えないのは確かです。しかし、場面を想像しやすいのは、敬体よりも常体や口語体です。
学年によって目指すべきところは違うのですが、やはり例えば今使っている国語の教科書で書かれているような文体や語いを目指した方が、より高い言語能力が身につくように思われます。

