昨日、メインPC(現在本稿を執筆しているPC)のOSをWindows8.1から10へとアップグレードさせました。3時間ほどかかりましたが、今はすこぶる快調です。
そのとき、念のために、注意やリスクなどをチェックしていると、Win10の評価に関するものを目にしました。しかし、その中には、機能そのものではなく、更新を勧めるポップアップを非難するような、営業姿勢に関わるものが多く含まれていました。しかし、これはWin10本体の評価とは全く関係がありません。なぜなら、例えば、身長が高いとか運動神経がいいことなどとその人の人格が優れているかどうかなどは関係ないのと同じだからです。それにも拘らず、このような営業姿勢が「Win10本体に関わるもの」と認識されがちなのは、議論中に人格批判を始めるのと同じ性質の問題が入り込んでいます。
この、議論のテーマそれ自体とは遠い人格批判をするような行為の原因は「表現はすべて人格の表れである」という認識ではないかと思われます。そうすると、「人格の表れでない表現の存否」こそが問題の核心となります。
例えば商業広告(チラシなど)は憲法21条1項の表現の自由ではなく、憲法22条1項の保護対象として含まれているとされる営業(経済活動)の自由の保護を受けます。それは、憲法21条1項で保護される表現は、人格の発現であったり、民主政の過程に資するために高価値であると考えられており、商業広告などはそのような要素がないと考えられているからです。このことから理解されるように、表現の全てが人格の表れであるというのは誤りだといえます。
そうすると、人格に関わりがない議論であるにも拘らず、人格批判を行えばそれは的外れであり、「主張自体失当」のそしりを受けるといえましょう。
では、人格に関わるものであれば、人格批判は許されるということになるのか。これについては、そういうものもあろうかと思われます。例えば、人格矯正をしなければならないような場面(多くは教育の場面)では、人格批判をしなければ(つまり、なぜその人格を矯正しなければならないのかを認識するように説明しなければ)目的が達せられないからです。
しかし、このような場面は例外的です。なぜなら、人格と価値観は切り離せず、多くの場合は人格矯正(教育)の名の下に価値観の押しつけが生まれるからです。
そうなると、問題は、価値観の押しつけにならないかどうかをどうやってチェックするのかです。これは対話の基本である「反転可能性」によるしかないように思われます。「反転可能性」とは、「相手の立場に自分が置かれても納得できるかどうか」です。ただ、これの適用にも注意が必要です。例えば好き嫌いなどは人によって異なります。お酒が嫌いな人がお酒の好きな人に向けて「酒なんか何の役にも立たない。早々に止めてしまえ」と言った場合、人の「反転」、つまり人を入れ換えただけしたとしても、「酒嫌いだし、別に問題ない」という回答が導かれてしまいます。しかし、これでは相互理解には結びつかず意味がない。重要なのは「相互理解」である以上、ここでは「自分が好きなものを『役に立たないから止めろ』と言われて納得できるか」というレベルまで抽象化が必要なのです。ここまで踏まえてなお批判できる場合にのみようやく(人格)批判が可能なのです。
このような例は刑事裁判ですら実践されています。それが「悪性格の立証」の問題であり、悪性格の立証(例えば、被告人は極悪非道な人間であるという立証)は、原則として「関連性なし」とされ、証拠能力(証拠となることができるという性質)を否定されます。悪性格の立証が否定されるのは、争点が拡散し、裁判の長期化やあるいは予断が入り込んでしまうことなどが理由になっています。つまり、(刑事)裁判においては、(情状立証などを除いて)人格に関わる部分を「余計なもの」、「邪魔なもの」と考えているのです。
このようにしてようやく議論の射程が画定するのであり、この射程外にある主張は議論を混乱させるおよそ邪魔なものであり、排除すべきなのです。

