明けましておめでとうございます。
本年も当ブログ共々よろしくお願いいたします。
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さて、予告通り、新年一発目はこんなお話です。

法学は、神学と比されることがしばしばあります。神学とは、主にキリスト教を前提に、例えば聖書の解釈などをその任務としています。このことから既に法学との近似性は看取されることでしょう。その証拠に、法理論は時に、Rechtsdogmatik(独;レヒツ・ドグマティーク/日;法の教義)と呼ばれることもあります(ドグマとは、宗教教義を指すのが原義です)。

実質においても、やはり近いところがあります。例えば物理学が物理学的「真理」を探究するものであり、またそれが可能かつなされてきたのに対し、法学にはそれが「不可能」だと(おそらく、学者もみんな)思われているのではないかと思います。これを端的に表す言葉があります。それは「法律が改正されれば図書館1つ分の蔵書が無価値になる」というものです。
もっとも、この言葉は、日本では現実には妥当していません。そもそも、日本が現代法(西洋法)を手に入れたのは、明治中期です。たかだか150年弱の歴史しかないのです。しかも、民法や刑法といった基本法典は、明治に制定されてから、形は変えつつも、大まかな根本思想は変えずに現在に至っています。そのため、非常に古い、例えば民法起草者の一人である梅謙次郎博士の『民法要義』などは現在でも引用されることがあります。したがって、日本ではまだ、この言葉を実感あるものだとは思われていないのかもしれません。

過去には、川島武宜博士により書かれた「科学としての法律学」というタイトルの論文が書かれています(この論文が登載されたもっとも新しいものとしては、同『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店・1987))。そこで川島博士は、法律学の科学性に疑問を呈され、またドイツでも、ハンス・ケルゼンの手による『純粋法学(Reine Rechtslehre)』という本で法学の科学性が追求されました。
しかし、それでも、いまだ法学は「科学性」を手に入れたとは必ずしも言えません。例えば、契約の成立に意思理論を持ち出すことが「必然」なのか、あるいは、罪刑法定主義は「必然」なのか、民事不法行為法や刑事実体法において「責任主義」が「必然」のものなのかは、まさに一定の命題を「受け入れられる」かどうかにかかっており、そこから回答が決せられるものです。唯一無二の真理などない。ただあるのは、法実践の集積のみです。その法実践もまた事実ではあるけれども、真理ではありません。

刑法における現在の東大学派の祖ともいうべき小野清一郎博士は「法は基本的に倫理的なもの、倫理によって底礎されたものである」と明言しました(例えば、「法の美学」『刑法と法哲学』(有斐閣・1971)15ページ)。そして、小野博士はその倫理が歴史的・文化的なものであり、風土的・時代的にその内容を異にしているとして、普遍的なものであることを否定しています。私はこれとは少し異なる立場に立ちますが、そうはいっても、法が歴史的に形成されてきたという一事だけを見ても、法的真理などというものの存在に疑問を持たざるを得ません。

いまだ十分な解答を得られていませんが、少なくとも、法解釈学にとって、条文とは基本的に墨守すべきものであり(もっとも、より高次の法理念のために条文が死文化されることもあり、実際に墨守されているのは、そういった法理念かもしれません)、その意味で、法典(法理念)は聖書と差がないことはどうやら認めざるを得ないようです。ただ、それでも、現状と法典が乖離し出せば、それを整合するように改正や新設が検討されるのであり、決して動くことのない聖書とはその点で趣を異にするのです。

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