昔、法律の世界では「公私二元論」と呼ばれる議論が当然のものとして理解されてきました。すなわち、「国家と市民の法的関係を規律するものが公法であり、市民間の法律関係を規律するのが私法(≠司法)であって、両者は相互に住み分ける」というわけです。しかし、現在では多くそれがオーバーラップしており、現在ではドラスティックな意味での公私二元論は維持できないことにはほとんど異論がないとも思われます(拙稿「公法・私法二分論?」参照)。

しかし、それとは別に、生活領域としての「公的領域」と「私的領域」が区別されることは否定できないように思われます。法律関係の場合には国家との関係を切り離せないのに対して、生活領域という意味では純然たる「私」の領域が観念できるからです。典型的には、その人の頭の中は純然たる私的領域です。いかなる者であれ、彼(女)の思考を強制すべきではありません(憲法19条参照)。「頭の中」が「生活領域」だといわれると少しびっくりする方もいるかもしれませんので、もう少しイメージしやすい例としては、自室や自分が専有しているときのトイレの個室やバスルームを思い浮かべていただいてもいいと思います。対して、公的領域というのは「他人のいる空間」だということができます。つまり、たとえ家の中であれ、リビングに家族がいればそこは一種の公的領域だといえます。

公的領域が「他人のいる空間」だととすると、そこは、「政治」の場でもあるということになります。こう聞くと、これまた驚く方も多いと思います。それは、一般にイメージされている「政治」というものが例えば国会や地方議会などの「権力」等に関わるものであるからでしょう。しかし、「問題の調整が必要になれば、そこには政治問題がある」といわれることがあります。このような認識のズレはそもそも「政治」というもの自体に確たる定義が与えられていないということにも由来しています。
上記の理解に従えば、人が複数人いる時点でそこには「社会」が形成され、不可避的に「政治」が生じることになります(拙稿「社会と人」参照)。例えば子供をどの学校に入れるかも一つの政治問題であると表現し得ますので、当然家族間でも政治があり得るわけです。
したがって、公的領域とは政治の場であり得る以上、そこでは私的領域と同様の思考や価値判断は排除することが必要になる場面が少なくありません。言い換えれば、私的領域と同じように思考・判断をしては、政治問題を適切に解決できないということが十分にあり得るのです。

公的領域においては理性的な問題解決思考や調整という名の妥協の繰り返しが必要であるはずなのに、私的領域で妥当する「好み」という問題を持ち出すこと自体、領域認識の観点において誤りがあるように思われるのです。

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