昨日更新を飛ばしてしまいましたので、またどこかで埋めたいと思います。
それはともかく、最近は頭の体操のような記事を書いていないので、久しぶりにそのような内容を。

いつだったか、アメーバ内のとあるページを見ていた時、「結婚式でのご祝儀3万円というのは固定概念か」というものがありました(すでに「固定観念」を「固定概念」と誤りがあるのですが。「概念」はその意義が固定されていなければなりません。)。
そのページでの議論のほとんど(3万出せない程の関係なら行くなとか、恥ずかしい、など)は全くもって無価値なものでしたが、ただ重要な部分を想起させることになりました。それが「固定観念」というものの内実です。

固定観念とは「状況の変化や異なる意見があっても、そう思いこんだまま容易には変わることのない考え」(明鏡国語辞典MX版)とされますが、当該考えが「固定観念か否か」というのは当該固定観念を有している本人にはわかり得ません。というより、「状況の変化や異なる意見」が出たことで揺らぎを生じた時点でそれは客観的には「固定観念」ではありえません。つまり、上記の「ご祝儀3万円」は「別にそうである必要はない」という見解が出た時点で固定観念ではなくなる(それまでは「固定観念」かどうかすらわからない)のです。例えば、「止まれを示す信号は【赤】でなければならないのか」という問いに対して「赤以外あり得ない」というのであれば、それは固定観念であり得ます。確かに道路交通法施行令2条によりその意が示されています。また世界各国の信号機の赤色灯も(ほぼ)同義です。しかし、それはあくまで法令上及び歴史的にそうだというだけで、赤色から例えば紫色に変えることが直ちに「不当」だというわけではありません。これを如実に示すのが車両は左側を通行せよ(道路交通法17条4項)というルールです。これが普遍的なものではないことはご存じのとおりです。その意味で車両の通行は左右いずれでも本質的に関係ないということになるのですが、これは「どちらか」に決まっていることが重要です。このような「どちら(どのよう)でも良いが、どちらか(どのようにか)が決まっていることが重要」な問題を「調整問題」だとするものがあります(長谷部恭男『憲法』〔第5版〕(新世社・2011)8ページ)。

少し、せっかくなので「ご祝儀」も考えてみましょう。
結論からいうと、「3万円」は固定観念です。しかし、同時に「調整問題」でもあるように思われます。ご祝儀の本質は、例えば披露宴での食事や引き出物の「対価」ではありません。結婚という社会的な祝事に対して贈られる「贈与」です。したがって、本来はそのお祝い事に対して自分が気持ちを物や金銭に仮託(つまり気持ちの表れと)して表すものであり、受取人はおろか第三者にとやかく言われるものではないはずです(その意味で本来式も披露宴もご祝儀を当てにして予算を立てるべきではありません。そもそも披露宴は「私たち結婚したんです」というのを社会に示すことに意味があり、招待客というのはあくまで当該夫婦が自分たちが夫婦になったことを認めてほしい人たちというのが本質のはずです。なお、世間で言われる「結婚」には、宗教的意義を持つ「(教会や神社で行う)結婚式」、社会的意義を持つ「披露宴」、日本法上の意味を持つ「婚姻届の提出・受理」の3つ意味があるとされます。法的結婚である婚姻を届出ではなく、結婚式に要求するのを宗教婚主義、披露宴等に要求するのを事実婚主義ということがあります。拙稿「法律婚か事実婚か」参照)。
しかし、ご祝儀を出す側としては、「いくらにするか」悩むのも事実です。しかも「気持ちを仮託するもの」である以上は、とりわけ周囲を気にする(良く言えば、恥を重んじる)日本人的気質からすれば、「周りに合わせたい」という気持ちが生じることも理解できます。そうすると、一見合理的に見える、一定の理由により定額化するとそのような悩みを払しょくでき判断を簡明にしてくれます。この発想はまさに「調整問題」の発想です。したがって、「悩むくらいなら3万にしとけ」というわけです。言いかえれば、それが不相当だと感じられる場面(たとえば極めて仲のいい友人に3万では少ないと感じる場合)にはそれに限る必要はないということになります。

このように見てくると、マナーの多くも実は「固定観念」なのかもしれません。
なお、法律学の世界には「LRA(less restrictive alternatives)の基準」というものがあり、これは「より制限的でない代替方法があればそれを選ぶべき」というものです。このようなものも物事を考えていく上では役に立つのかもしれません。

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