昨日は家にいる時間がなかったため、その埋め合わせは今週中に一度したいと思います。

「0(ゼロ)の発見」というのは数学史上は一大事件として認識されています。
しかし、実は認識論的にもこれは大きな意味を有しているように思われます。

我々はあるものが「ある」ことは容易に認識できます。例えば、今あなたの目の前にリンゴが「ある」としたら、あなたは「リンゴ」の「存在を認識」しています。では、今あなたの目の前にはミカンが「ない」としたら、あなは「ミカン」の「不存在を認識」しているのでしょうか。普通の人なら「当たり前だ。ないことを認識している。」と言うでしょう。しかし、「不存在を認識する」というのはどういうことなのでしょうか。

結論から言うと、「存在の認識」を前提に、「その存在が認識できない」から「不存在」だと「観念」しているに過ぎないように追われます。言い換えれば、そもそも「存在の認識」すら危ぶまれるものは「不存在の観念」すら危ぶまれるのです。
例えば、全く「リンゴ」という存在を知らない人がいて、その人が「リンゴの不存在を認識」することはできないのではないかと思われるのです。なぜならば、そもそも「ある」ことがわからないのに、「ない」ことを直接に理解することができないからです。
極端な例として、「神は存在するか」という問いには、実は回答が存在しないのです。どういうことかというと、前提としての「神の存在」を認識なくしては、「神の不存在」も認識・観念できないからです。実は、この問いでは、「認識の有無」という問題ではなく、「観念と認識の接合」という点で問題設定がされているのです。つまり、この問いに接する人々は、「観念としての」あるいは「概念としての」神の「存在」を認め(言い換えれば「認識」し)た上で、その実体の「存在」の認識について論じているのです。その意味において、観念としての「神」の存在は否定できなくなります。しかし、その実体的存在は否定することができるのです。つまり、存在が2つに割れるのです。

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