例えば、このブログを見た方が、私が「この行為は適法だと考えられます」と書いたために、「あぁ、この行為は適法なんだな」と理解し、その行為を実現したところ、実際には私の理解が誤っていたり、あるいは判例が別の理解をとっていた、さらには裁判所が判例以外の立場をとったことにより、違法認定されてしまったという可能性は否定できません。では、その場合、あなたはどうしたらよいのでしょう。ここでは、民事の場合ではなく、刑事の場合を念頭に考えてみたいと思います。


刑法38条3項が「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない。」と定めているのですが、ここでいう「罪を犯す意思」は同条1項のそれと同じで、「故意」を指すものだと解されています。したがって、法律の条文等を知らなくとも故意は否定されないというわけです。しかし、故意というのが「構成要件該当事実に対する認識・予見及びその認容」だという通説的な理解からは、ある行為が「違法」であるという認識(あるいはその可能性)すらなかった時には、刑罰を賦課するのは妥当ではないのではないかという問題意識が生じたのです。

それを刑法理論として組み込んだものが「違法性の意識(の可能性)」というものです。通説的な理解では、これは「責任要素(つまり、有責性判断に関わる要素)」だと考えられています。すなわち、当該行為及び結果の実現が違法であるということをおよそ認識出来なかった場合は、(超法規的)責任阻却事由があるとして、故意犯としては不可罰であるとすべきであるというのです。


この問題に関連する重要な判例としては、古くには「犯意の成立には違法の認識は必要でない」とする昭和25年11月28日の最高裁判決があるのですが、それと併せて、いわゆる「百円札模造事件」と呼ばれるもので、昭和62年7月16日の最高裁決定が重要です。事案は次のようなものです。すなわち、ある飲食店がサービス券をつくるに際し、当時はあまり流通していなかった「百円札」と同じ大きさ、図案、かつ同じ色でデザインし、上下2か所に「サービス券」と赤色で記して、紙幣番号のところにお店の電話番号、「日本銀行券」のところにお店の名前に変え、裏面を広告としたものを作成しました。それを印刷する際、印刷所からお金と似ているものをつくるのはまずいのではないかといわれたため、知人の警察官を頼り、その警察官とその警察官が勤務する防犯課保安係の係長に見せたところ、通貨及び証券模造取締法の条文を同係長に示され、紙幣と紛らわしいものをつくることは同法に反すること、サービス券を真券よりも大きくしたり、「見本」や「サービス券」という文字を入れ、だれが見ても紛らわしくないようにすればよいのではないかと助言されました。しかし、その警察官の態度が好意的で助言がそうすべきものというようには聞こえず、銀行の帯封も銀行に依頼した際、その支店長が簡単にこれを承諾したため、助言を重大視せずに、百円札の流通量、裏面の広告の存在を合わせて考え、「サービス券」の表記もあることから、大丈夫だろうと、そのまま印刷したという事案です。

最高裁はこれについて、「行為の違法性の意識を欠いていたとしても、それにつきいずれも相当の理由がある場合には当たらないとした原判決の判断は、これを是認することができる」と判断しました。

したがって、「違法性の意識」がなかったとしても、それだけでは不可罰にはできないということになります。ただ、それについて「相当な理由」がある場合についてはまだ先例がなく、学説上は、「警察、検察等の公的機関の助言に従った場合には違法性の意識の可能性に欠け、不可罰とすべき」というものが有力で、逆に弁護士であったとしても、公的機関ではない以上は、違法性の意識の可能性は否定できないと考えるものがあります。事実、映画倫理審査会の助言に従ったもののわいせつ物陳列罪の成立を肯定した昭和44年9月17日の東京高裁判決があります。さらには、判例に従っていても、判例変更が予想されれば、違法性の意識の可能性がないとは言えないと考えられています(平成8年11月18日最高裁判決参照)。


このように見てくると、まさに一般市民が開陳する法的見解は何の権威も持ちません。刑事法学者の中には、刑法総論の講義等の中で、「私の見解に従ったからと言って、違法性の意識の可能性に欠けるわけではない。」と明言する方もいらっしゃいます(私が刑法の演習に参加したときの担当教官ですw)。刑事法学者の見解ですらそうなのですから、まして一般市民であれば当然です。

なので、なるべく正確に示そうと心掛けている私のブログであってもお気を付け下さいね…。



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