Rael Maitreya
Nobby Raelian訳
1882年:農産物輸出でイタリアに匹敵したパレスチナ
*「人のいない土地」という神話を覆すデータ*
=====
▼ ある言説を解体する
1世紀以上にわたり、シオニストの歴史叙述や西洋社会に広く共有されてきた認識の多くは、同じイメージを繰り返してきました。すなわち、19世紀のパレスチナは、人のいない、遅れた、停滞した土地であり、沼地と砂漠が広がる荒れ地で、ヨーロッパからの植民による「救済」を待っていた、というものです。
シオニストのスローガンである「土地なき民に、民なき土地を」は、現実を描写したものではなく、政治的な計画に奉仕するイデオロギー的な構築物でした。土地が空であれば、自決権を奪われる人々も存在しない、ということになるからです。
しかし、このイメージは、出自も方法論も異なる複数の資料によって明確に否定されています。一方には、オスマン帝国の人口調査や人口登録簿(sicill-i nüfus)、各州・サンジャクの行政年鑑(salname)があります。もう一方には、パレスチナの港湾における税関記録があります。さらに、当時のイギリスおよびフランスの領事報告書もあり、これらは西洋の経済史家によって独立して収集・分析されています。
これらは互いに依存していない資料ですが、それでも同じ結論へと収束しています。
▼ 人口の空白ではなく、増加する人口
1850年から1882年にかけて、パレスチナの人口は約38%増加しました。
この数字は、単一の資料だけに基づいているわけではありません。ジャスティン・マッカーシー(1990年)は、オスマン帝国政府の公式統計とイギリス委任統治期の統計をもとに、オスマン帝国の人口記録を独自に分析しました。
また、ケマル・カルパト(1985年)も、19世紀のオスマン帝国の人口調査を体系的に研究しました。その中には、ここで扱っている時期と重なる1881~82年の一般人口調査も含まれており、これはオスマン帝国末期全体の人口動態を研究するうえで基準となる資料となっています。
これらの研究者は、それぞれ異なる史料群を用い、互いに独立して研究を行いました。それにもかかわらず、根本的な結論は一致しています。パレスチナの人口は継続的に増加していたのです。
この人口増加は、高い出生率と死亡率の低下という内在的な要因によって説明されています。マッカーシー(1990年)は、経済移民、難民、未登録移民といった仮説も明示的に検討しましたが、それらが人口動態に大きな影響を与えていたことを示す証拠は見つからなかったとしています。
ショルヒ(1985年)は、1850年から1882年にかけてのエルサレム、ナブルス、アッコの各サンジャクの人口動態を専門に扱った独立した研究の中で、同様の継続的な人口増加を再構成しています。人口はこの32年間に約35万人から47万人へと増加しており、その背景には治安の改善、農業の拡大、衛生状態の向上があったとしています。
したがって、パレスチナの人口増加は、「空白を埋める」ために外部から人々が流入した結果ではありません。それは、すでにそこに暮らしていた住民の自然な人口増加でした。そして、そのことは、その地域が属していたオスマン帝国自身の行政記録――エルサレム、ナブルス、アッコの各サンジャクというオスマン帝国の行政区分――の中に記録されています。
▼ 植民地主義的な物語が無視したがる対比
この人口動態を、同じ時代にヨーロッパの植民地支配を受けていた他の周辺地域と並べてみることには意味があります。その対比が明瞭だからです。
事実上イギリス帝国の植民地であったアイルランドでは、人口が1841年の810万人から1881年には510万人へと減少しました。約37%の減少です。これは、大飢饉の最中に、現地住民の生命よりもアイルランド産食料の輸出による収益を優先したイギリスの政策による直接的な結果でした(アイルランド中央統計局、日付不明)。
フランス統治下のアルジェリアでは、先住民人口がさらに苛烈な人口崩壊を経験しました。それは、軍事征服、虐殺、焦土作戦、飢饉、疾病の結果であり、死者数は最大100万人に達したとの推計もあります(Kiernan, 2007)。
こうした植民地支配による人口破壊の過程とは対照的に、ヨーロッパではなくオスマン帝国の統治下にあったパレスチナでは、逆の動きが見られました。人口は増加し、乳幼児死亡率は低下し、経済状況は改善していたのです。
この対比は偶然ではありません。ヨーロッパの植民地権力が直接支配を確立した地域では、現地住民の人口が崩壊しました。それが起きなかった地域では、人口は繁栄したのです。
▼ 農産物輸出:世界経済に組み込まれた経済
この成長する経済を支えていた原動力は、農業部門とその関連産業でした。
オスマン帝国はパレスチナについて全国的な輸出統計を作成していなかったため、その数字はヤッファ、ハイファ、アッコの3港の税関記録から再構成する必要があります。これらの記録によると、1880年代初頭の農産物輸出額の合計は、年間およそ200万~250万ドルに達していました。
さらに、羊毛、綿花、オリーブ油についてハイファとアッコの記録が欠落している分を補うため、控えめな推計を加えると、一人当たりの輸出額は4.80~6.00ドルとなります(Schölch, 1993)。
人口データと同様に、これらの数値も一つの資料だけに依存しているわけではありません。ショルヒ(1993年)は、パレスチナに特化したオスマン帝国およびヨーロッパの行政資料・領事資料からこれらを再構成しています。
イサウィ(1988年)は独立して、肥沃な三日月地帯全体の経済史資料をまとめる中で、同じ時期のヤッファとその周辺地域の貿易について、イギリスとフランスの領事報告書を収集・体系化しました。
一方、オーウェン(1981年)は、地域規模でオスマン帝国の対外貿易の総合系列を再構成し、パレスチナの商業拡大という同じ傾向を確認しています。
つまり、オスマン帝国の記録、ヨーロッパ諸国の領事報告、地域レベルのマクロ経済系列という3つの異なる史料群が、同じ診断へと収束しています。すなわち、これは統計上の異常でも、単一の再構成によって生み出された見かけ上の現象でもなく、持続的に成長する輸出経済だったということです。
▼ 地中海諸国と比較したパレスチナ:数字は嘘をつかない
地中海沿岸および北アフリカの他の農業経済と比較すると、パレスチナの位置づけだけでも、後進地域だったという物語を覆すものとなります。
イタリアの一人当たり農産物輸出額は6.30~6.65ドルであり(Federico et al., 2011)、パレスチナとほぼ同水準でした。
モロッコは大きく遅れ、一人当たり約1.00ドル、リビアはわずか0.03ドル程度でした(Federico & Tena-Junguito, 2019)。
エジプトは綿花貿易のおかげでパレスチナを上回り、一人当たり7.00~8.00ドルに達していました(Federico & Tena-Junguito, 2019)。しかし、両者の差は、パレスチナとモロッコやリビアとの差に比べれば、はるかに小さいものでした。
パレスチナは地域平均を大きく上回る実績を示していました。1882年までには、もはや余剰分を時折輸出するだけの自給自足経済ではありませんでした。国際市場を明確に志向した、拡大する商業部門となっていたのです。
シオニスト神話における「空っぽの土地」は、実際には、その周辺地域の中でも最も活力ある農業経済の一つでした。
▼ 繁栄から土地喪失へ:1917年という問題
この自律的な成長の流れは、数千キロも離れた場所で下された決定によって中断されました。
1915~1916年、フサイン=マクマホン書簡を通じて、イギリス政府は、オスマン帝国との戦争に加わることを条件として、アラブの指導者たちに自治と独立を約束しました。その際、アラブ民族の自決という原則を明示的に持ち出していました。
その2年後、同じイギリス政府はバルフォア宣言(1917年)を発表し、パレスチナに「ユダヤ人のための民族的郷土」を設立することを支持すると約束しました。この約束は、その土地で影響を受ける人々に対してなされたものではなく、イギリス人貴族ウォルター・ロスチャイルド宛ての書簡の中でなされたものでした。
この矛盾は、単なる道徳的な問題ではなく、文書によって確認できます。そのわずか1年前には、アラブ独立への支持を正当化する原則として自決権を掲げていた同じ国家が、1917年にはその原則を放棄したのです。
そして、それが放棄されたのは、すでに引用した人口統計資料(McCarthy, 1990; Karpat, 1985)が一致して示すところによれば、オスマン帝国末期にユダヤ人人口が全体の10%を超えず、イスラム教徒とキリスト教徒を合わせたアラブ人が約90%を占めていた地域に対してでした。
バルフォア宣言には、「パレスチナに現存する非ユダヤ人共同体」の「市民的および宗教的権利」を保護するという条項があります。しかし、彼らをアラブ人あるいはパレスチナ人と名指しすることなく記したこの条項は、この矛盾を解消するものではありません。むしろ、その文書自体がこの点を問題として認識していたことを示しています。しかし、同じ時期の外交書簡の中でオスマン帝国支配下の他の人々に認められていた自決という原則を、そこにまで適用するには至りませんでした。
▼ 参考文献
Central Statistics Office (Ireland). (n.d.). Statistical yearbook of Ireland: Population of Ireland, 1841–1926. CSO.
https://www.cso.ie/en/census/censusreports1821-2006/
Federico, G., Natoli, S., Tattara, G., & Vasta, M. (2011). Il commercio estero italiano, 1862–1950 (Collana Storica della Banca d’Italia, Statistiche Storiche, Vol. 4). Editori Laterza.
https://www.bancaditalia.it/.../statistiche-04/index.html
Federico, G., & Tena-Junguito, A. (2019). World trade, 1800–1938: A new synthesis. Revista de Historia Económica – Journal of Iberian and Latin American Economic History, 37(1), 9–41.
https://doi.org/10.1017/S0212610918000216
Issawi, C. (1988). The Fertile Crescent, 1800–1914: A documentary economic history. Oxford University Press.
Karpat, K. H. (1985). Ottoman population, 1830–1914: Demographic and social characteristics. University of Wisconsin Press.
Kiernan, B. (2007). Blood and soil: A world history of genocide and extermination from Sparta to Darfur. Yale University Press.
McCarthy, J. (1990). The population of Palestine: Population history and statistics of the late Ottoman period and the Mandate. Columbia University Press.
Owen, R. (1981). The Middle East in the world economy, 1800–1914. Methuen.
Schölch, A. (1985). The demographic development of Palestine, 1850–1882. International Journal of Middle East Studies, 17(4), 485–505.
https://doi.org/10.1017/S0020743800029445
Schölch, A. (1993). Palestine in transformation, 1856–1882: Studies in social, economic and political development. Institute for Palestine Studies.
方法論上の注記:
本稿で示した人口および商業に関する数値は、互いに異なる史料群と方法論を用いて行われた、複数の独立した研究によって裏づけられています。具体的には、オスマン帝国の行政記録・人口調査記録、ヨーロッパ諸国の領事報告書、そして対外貿易の総合的な再構成です。これらはいずれも、概ね同じ結論に到達しています(McCarthy, 1990; Schölch, 1985, 1993; Karpat, 1985; Issawi, 1988; Owen, 1981)。

