Rael Maitreya
Koichi Raelian訳
エチオピアは、アフリカで唯一植民地化されなかった国であり、その理由は1896年のある一戦にある。
その罠は「翻訳」にあった。1889年、エチオピアとイタリアはウチャレ条約を締結したが、その第17条は2つの言語で異なる内容が記されていた。エチオピア人が読んだアムハラ語版では、対等な主権国家間の外交的提携が規定されていた。一方、イタリア語版では、エチオピアを密かにイタリアの保護領に変えていた。その後、ローマはヨーロッパ諸国に対し、エチオピアはイタリアの領土であると宣言した。タイトゥ・ベトゥル皇后は、この欺瞞を真っ先に看破し、エチオピアがこれを拒否するよう求めた最初の人物であった。彼女の名前は「太陽の光」を意味する。彼女は夫や周囲の重臣たちに、尊厳は交渉の余地がないと告げた。
メネリク2世皇帝は条約を破棄し、イタリアは軍を率いて侵攻してきた。その後展開された戦いは、まさに見事な戦いだった。メネリクは、自軍の兵力を実際よりはるかに少ないように見せかける偽の報告を流布し、指揮官たちが分裂しているという噂を広めた。彼とタイトゥは5ヶ月かけて軍を北へ600マイル近く進軍させた。これはナポレオンがロシアへ進軍した距離よりも長いものであった。メケレの包囲戦では、タイトゥ自身の戦略によってイタリアの要塞が陥落し、守備隊が降伏するまで水の供給を断ち切った。彼女は戦場で自ら連隊を指揮した。
1896年3月1日、アドワの町の近くで、イタリア軍は部隊を4つの縦隊に分割し、暗闇の中、山岳地帯を進軍した。彼らは連携を失い、互いの連絡も途絶えてしまった。そこを待ち構えていたのは、約10万人の男女からなるエチオピア軍であり、その多くは近代的な小銃を携えていた。エチオピア軍は分断された縦隊を包囲し、一つずつ殲滅していった。イタリアは、わずか1日で約6,000人から7,000人の戦死者と約3,000人の捕虜を出し、侵攻部隊のほぼ半数を失った。
「アフリカ分割」の時代において、アフリカの軍隊がヨーロッパの植民地勢力を決定的に打ち破ったのはこれが初めてのことだった。イタリアはその年の10月、アディスアベバ条約に調印し、不正な条約を破棄するとともに、無条件でエチオピアの主権を承認した。ヨーロッパは衝撃を受けた。帝国主義のイデオロギー全体は、「アフリカ人は組織化できず、指揮を執れず、勝利できない」という主張に立脚していた。アドワの戦いは、その主張が嘘であることを公然と証明したのだ。
だからこそ、エチオピアの国旗は多くのアフリカ諸国の国旗のモデルとなり、キングストンからハーレム、アクラに至るまで、黒人たちはエチオピアを「可能性の証」として仰ぎ見たのである。
彼らは世界に対し、「アフリカ人はヨーロッパ軍に勝てない」と主張していた。しかし、あるアフリカの皇帝と皇后が600マイルを行軍し、たった一朝のうちにその説を覆したのだ。「自分たちの民族は一度も勝ったことがない」と教えられてきたすべてのアフリカ人には、「アドワ」という名を授けるべきである。
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