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人間は、動物とは違って、自己プログラミングが可能なコンピュータとして創造された。 | ラエリアン・ムーブメント:"前の”アジア大陸代表のブログ

 

2.

 完全なる覚醒に至る段階   5つの段階 | ラエリアン・ムーブメント:"前の”アジア大陸代表のブログ

 

3.

自分自身を認識する---人間は機械に対して、何ら優越性を持たない。 | ラエリアン・ムーブメント:"前の”アジア大陸代表のブログ

4.

自分自身を認識する---2/2 私たち人間固有の特権は? | ラエリアン・ムーブメント:"前の”アジア大陸代表のブログ

の続きです。

 

 

ハーモニー・メディテーション

                                                 ラエル

 

第四章 意識的な非プログラム化

 

 すべての私たちの反応や行動は、それまでの教育の全課程において、私たち が受けてきたプログラミングの結果です。私たちは生まれて以来ずっと、知らないうちに環境によって作り上げられてきました。両親、友人、教師、新聞、 映画、等々によって私たちは条件づけられ、今日の自分に仕上げられてきたのです。  

 

私たちの眠り方、洗面の仕方、食べ方、服の着方、話し方、歩き方、他人の 評価の仕方など、私たちの行動の一切いっさいが、私たちの受けてきた無意識の条件づ け(訳注:一定の条件反応を起こさせるようにすること。あるいはそのための様々な条 件を課すこと)に起因きいん しています。  

 

この現象をよく理解するために、ここでも再びコンピュータと比較 してみま しょう。コンピュータは、そのためにプログラムされ記憶装置に蓄たくわ えられたこ としか行いません。私たちもまったく同様です。ただ違いと言えば、私たちは こうしたプログラミングを意識し、その要素を分析し、くだらないと思うもの を、他のものと取り換 えることができるということです。 このように私たちは、自分で自分をプログラムすることができますつまり、 自己プログラミングが可能なコンピュータです。  

 

問題は、私たちが、自分自身の嗜好しこう や心の奥深くに根ざした性向とは無関係 に、前述した親や教師たちからずっとプログラムされてきたことです。そういう彼ら自身は、教えていることに疑問を投げかけることもできず、ただ、自分 たちが押し付けられてきたことを、そのまま私たちに叩たた き込んでいるだけなの です。  

 

何千年も前から、人間は、あらゆる原始社会に固有の迷信、恐怖、神秘主義 が次第に混 ざり合った条件づけの方法を、世代から世代へと伝えてきたのです。 

 

したがって、私たちの行動の一切を疑ってみることから、覚醒への第一段階 は始まります。筆者はあえて、一切の行為と言います。食べ方、歩き方、あら ゆる状況における私たちの反応の仕方、そして、本当に取るに足りないことも 含めての一切の行為です。  

 

例えば、服の着方はどこでも同じというわけではありません。もし私たちが 北アフリカに生まれていたら、ディエラバ(訳注:モロッコ人の着る丈たけ の長い仕事 着)を着るだろうし、ブラック・アフリカに生まれていたら、腰布一枚だけを 身に付けているかもしれません。腰布は私たちの厳しい気候には適合しないと しても、ディエラバの方は大変よくマッチするでしょう。にもかかわらず、私 たちの父親は背広の上下を着、私たちもまた、そうである客観的な理由は何も ないのに、親と同じものを着ています。  

 

食事の仕方についても同じことが言えます。もし私たちが中国に生まれてい たら、箸はし を使って食べるだろうし、アフリカのある地域に生まれていたら、指 を使って食べているでしょう。フォークの使用は、これは私たちが選んだので はありません。それはフォークが必然的・本質的に最良のものではないとして も、とにかく教育によって私たちに押し付けられたものです。例えば、中華料 理は最初から細かく切って出すので、ナイフはまったく無用です。しかし私た ちは、そのことを知りながらも、各人が苦労して細かく切らなければならない 料理を出し続けています。  

 

あなたが一日のうちに行う行為のすべてを、自分はなぜこうしているのだろうと自問しながら、客観的に分析してみることです。あなたの両親とは異なる やり方を選んで行った行為が、ほとんど存在しないことを発見して、あなたは 驚くことでしょう。  

 

もちろん、私たちが教育で学んだことのすべてが悪いわけではなく、あるも のはそのまま維持されるべきです。しかし、大事なことは、私たちが何かをするときに、自分が何をしているのかを意識していることです。  

 

私たちが、他人やその行為に対して自分の行動を分析するときは、話はもっ と微妙なものになります。箸はし を使って食べたりディエラバをまとうといったことは、異国情緒じょうちょ を醸かも し出して面白いとしても、アラブ人を憎悪したり同性愛を 侮蔑ぶべつ するように条件付けられていると、彼らをあるがままに受け入れて理解し ようとすることが、大変困難なことになります。  

 

私たちは、生まれて以来、何度となく、人がアラブ人のことを悪く言うのを 聞いたものです。悪口を言う人々は、彼らの先祖が暴力でアラブ人を支配した ので、アラブ人を劣おと った人種だと考えているのです。あまりに何度も悪口を聞 かされるので、私たちも遂つい に、ある日、その言葉を繰り返すようになっていま した。  

 

何度、同性愛者は悪徳の変質者であると、人々が言うのを聞いたことでしょ う。しかしそういう人々は、実は、心の奥深くに長いあいだ押さえつけられて きた自分自身の同性愛的傾 向を、同性愛者の中に見いだすことを恐れているの です。しかし、あまりに何度も聞かされるので、遂には私たちも、馬鹿げたこ とを繰り返し言うようになっていたのです。  

 

覚醒した人は、個性の違う他人と接触することによって、自分が豊かになっ ていきます視野が狭い偏狭へんきょう な人は、個性の違う人に出会うと、知らないうち に教え込まれてきた紋切り型の答えを繰り返し、その相違点と闘たたか うことで自分 の脳を萎縮 させてしまうのです。その相違点は、どのようにしても無くすこと はできないというのに。  

 

ですから、私たちを教育してきた人たちによって植え付けられた、すべての 観念を脳の中から一度取り出し、それをふるいに掛 ける必要があります。 

 

「これは斯々かくかくしかじかの理由によって、良いので保存しよう。これは悪いので 排除しよう」  

 

保存する観念を選別する基準は、私たちの教育者の意見に結びついたもので はなく、自分自身をよく知った上で、自分で作り上げたものでなければなりま せん。  

 

もしあなたが、「両親も同じように考えていたから、この考えは良い」と言 って満足してしまうのならば、この作業は無駄なものとなってしまいます。私 たちの持っている両親と同じ考えを、疑って見ることこそが大事なのです。  例えば、アラブ人や同性愛者のことについて言えば、まず何の先入観も持た ずに彼らと会って、理解しようと努つと めながら、彼らの言うことを虚心に聞く必 要があります。それから、自分がちょうどその時に会うことのできた、ひとり の人の個性に気を取られることなく、彼が述べた言葉の大筋から問題を解明し ながら、自分自身の意見を形成していくのです。  

 

この、すべてをふるいに掛 ける態度は、私たちの意識レベルの向上のために は不可欠です。私たちの性生活と、愛の概念に関する場合には特にそうです

 

 

愛か、それとも利己主義か

 

私たちは、愛とは死ぬまでの絶対的な所有を意味するものだ、と教え込まれてきました。この観念は、何千年にも亘わた る恐怖と苦悩を通して、私たちに伝えられてきたものです。金かね や馬や女…を奪うば うために、村を襲おそ った時代からです。 これらのものはすべて、いざという時には、何の躊躇ちゅうちょ もなく交換される財産と 見なされていました。  

 

男が霊魂れいこん を持っていることを認めたのであれば、女にも霊魂があることを認 めなければなりません(教会は長い間それを疑ってきました)。女性に投票権を与えたあとでも(投票権を与えてから一世紀も経っておらず、未いま だに認めていないと ころもあります)、自分の身体を自由にする権利を、女性には与えてはいません。 というのは、女性が望まないときには自分の子供を産まない、という権利を拒否しているからです(教会や特定の政府は、堕胎だたい と避妊 を罪としています)。  

 

さらに、金を奪うために愛していない人を殺せば、終身刑か死刑に処しょ せられ るのに、ところが人を殺しても、その人を「愛していた」と主張すれば、いわ ゆる痴情ちじょう 犯ということで、ときには5、6年の懲役だけで済むこともあるので す!  

 

これでは、まるで私たちは、愛する人を殺して、愛していない人を生かして おくことを、その成員に勧すす めている社会の中で生きていることになります。  

 

愛する人を殺せるのを不思議に思わないこと自体、私たちが如何に奇妙な愛 の観念を抱いだ いているかを示しています。愛をそのように捉とら えている人々は、実 際は、愛と利己主義とを混同しているのです。しかし、この二つの概念は全く 異なるもので、決して両立できないものです。事実、本当に愛する人は与える ことしか考えませんが、逆に自分しか愛さない利己主義者は、相手から取ることしか考えないものです。  

 

利己主義者は、自分のパートナーが、他の人から自分の時よりも大きな快楽を味わって、自分を捨てるのではないかと恐れます。そうなると、自分が今まで楽しんできた快楽が奪うば われてしまいます。というのも、利己主義者にとって 何よりも大事なことは、自分の利己的な快楽だけだからです。  

 

真に愛する人は、自分のパートナーが、自分よりもより大きな快楽を与えてくれる人に出会うことを、むしろ望むものです。なぜなら、真に愛する人にと って何よりも大切なことは、そのパートナー自身の幸福であるからです。 

 

利己主義者は、自分のパートナーが誰か他の人に出会って、その人から快楽 を得ることがないように絶えず見張っています。  

 

真に愛する人は、自分のパートナーが、その趣味を同じくする人々と出会うことを、むしろ助けるものです。  

 

利己主義者の場合、そのパートナーは、自分に快楽を与えてくれる他の誰か に出会ったとき、幸福という果実を隠かく れて食べるようなスリルを味わい、盗ぬす ん だ果実を食べる時のように一層の喜びを感じて、ますます新しい共犯者の虜とりこ に なってしまいます。  

 

真に愛する人の場合、そのパートナーは、自分に多くの快楽を与えてくれる 他の誰かに出会ったとき、他の誰かとこの素晴らしい時を過ごすことを可能に してくれた、前のパートナーに感謝をすることでしょう。そして大部分の場合 は、彼らはこの新しい経験によって豊かになり、再会するでしょう。

 

そして真に愛する人は、自分のパートナーが自分よりももっと満足させてく れる人に出会った時は、たとえその相手が自分以外の人であれ、パートナーが 前よりも幸福になっているのを見て、幸福に満たされるでしょう。  

 

利己主義者は自分の財産を保持することを望みます。利己主義者は、自分の パートナーが誰か他の人と幸福になるよりも、むしろ自分と共に不幸になることを望みます。そして、自分のパートナーが他の人と幸せになったときは、愛する人を殺すために銃じゅう を取ります。なぜなら、自分の愛した人が他の人と幸せ になるくらいなら、いっそ死んでくれた方がよいからです。自分のパートナー の幸福のことなどは目に入らず、かつて自分に属した人の身体から、他の人が 快楽を得るということで頭がいっぱいなのです。 それはちょうど、腹を空 かしている犬が、自分の骨に他の犬が近づくのを許 さないのと同じです。その犬は歯をむき出して、自分の骨を隠かく してしまいます。 利己主義者は全くこれと同じです。なぜなら、利己主義者にとっては、そのパ ートナーは犬の場合の骨と全く同じだからです。自分がパートナーから得る快 楽のことしか考えていないので、他の人がパートナーから快楽を得るのを見るくらいなら、いっそパートナーを、消してしまった方が良いわけです。  

 

さて、この嫉妬しっとという、厄介やっかい 利己主義の一 形態が起こるプロセスをもっと よく理解するために、例の自己プログラミングが可能なロボットのことに、再 び話を戻してみましょう。  

 

私たちは、それぞれが設計図の半面を持つ「有性」ロボットを造り、それらを性交させて完全な設計図と成すことによって、「女性」ロボットに「子供」ロ ボットを製造させることは、とても簡単であることはすでに見てきました。ま た、このロボットを生殖 へと導くためには、設計図の半面の注入器と受容器で あるそれぞれの性器官に、快楽を感じる神経末端を備え付けることによって、 性交を非常に快こころよ いものにしてやることで十分だということも、見てきた通りで す。
 

このロボットは自己プログラミングが可能なので、個人的な経験に応じてプ ログラムを変更することもできます。それによって、遺伝的な差異のほかに、 極きわ めて多種の個性が出現することになります。 

 

「男性」ロボットが初めて「女性」ロボットに出会うと、彼らは互いに知り合 うようになります。つまり、互いに相手のプログラムの一部を見いだすように なります。そして、彼らが互いに相手を気に入れば、つまり彼らのプログラム が、彼らをある一定の「精神的」調和へと導くならば、自分たちの中に湧 き起 こってきた性的欲求を満足させるために性交することもできます。  

 

さらに、結合の快楽をできるだけ多く味わうために、共同生活を行うように 決心することもできます。  

 

さて、ある日、パートナーの片方が別のロボットと出会い、例えばそのボディの形に非常に惹 かれるといった具合に、そのロボットのプログラムが魅力的 に見えたとします。その際、もう一方のパートナーは二つの行動を選択するこ とができます。一つは、たとえ自分以外の他人によってではあっても、自分の パートナーのプログラムが豊かになることを望み、それを援助することです。 もう一つは、自分のパートナーに、あらゆる異性ロボットとの交際を禁ずるこ とです。

 

もし、そのロボットが二番目の行動を選択したとすると、それは、そのロボ ットが、自分とは全く機構が違う他のロボットを、自分の所有物のように考え ることができるよう、プログラムされていたからに違いありません。  

 

ある人が、この地球上に住む何十億という人間のうちのひとりに出会ったと き、どうして急に、次のように考えることができるのでしょうか。 「この人こそが、私が今後、親密な関係を結んでいく唯ゆいいつ 一の人だ。たとえこれ から、私の趣しゅ 味み にもっと適した人に出会ったとしても、私はこの人に操みさお をたて よう。この人が、たまたま最初の人であったということだけで十分だ」  

 

これが、貞操なるものの正体なのです。 

 

いま だに原始的な文明の残滓ざんし が残っている数多くの国で、女性が買うことので きる商品と見なされていることは、さらに驚くべきことです。西洋諸国では、 自分の娘にしばしば計算高い花婿はなむこ が見つけられるように、持参金を持たせるの が父親であるとすれば、逆に花婿は、花嫁の父親に家か 畜ちく やその他の贈り物をし なければなりません。  

 

この商売と人間関係の混同は、全く非人間的なものです。それは、奴隷制度 の擁護ようご に繋つな がる所有観念を潜 在的に生み出すものです。自分が出会った人を、 その存在に慣れてくるに従って自分だけの所有物のように考え出すとすれば、 いわんや、伴侶を得るために金を支払ったとすれば、なおさらそうなるでしょ う。  

 

覚醒した人は、自分のパートナーが、その気をそそるあらゆる経験を積んで いくことに勇気を与え、パートナーを失うことを恐れないばかりか、さまざま な個性の持ち主との出会いによって感性が改善され、逆に、互いが豊かになっ て、また出会うのです。  

 

ここにおいても、コントラストが開花のための要素です。

 

だからといって、このことが、覚醒するためには必ずパートナーを変えてい かなければならない、ということではありません。パートナーが同一人物であ りながら絶えず変化していく人であるならば、その同じパートナーから、覚醒 のための無数のチャンスを得ることができます。そういうパートナーは、習慣 化から逃のが れるために必要不可欠なファンタジーをもたらしてくれます。習慣こそが、愛の宿敵なのです。 

こうして、情報の絶えざる交換のうちに、パートナー双方の開花が進んでい きます。新発見や相手の考えから互いが利益を受け、それによって官能の、ひ いては覚醒のレベルを、互いに改善し合うことができるようになります。  

 

しかし、このことは、自分とパートナーとの間の大変強烈な体験というもの を、他の人との間にも無理に持たねばならないということではありません。そ うではなくて、自分とパートナーとの間で築くふたりの世界が、外部に対して 完全に開かれたものでなくてはならないということなのです。つまり、パート ナーの双方が、第三者との親密な関係に入ろうと思えば、いつでも入れる状態 になっており、それぞれが、相手が豊かになることは自分自身が豊かになるこ とだと、理解しているということです。  

 

覚醒とは、自分の環境とコミュニケートして、感覚によって伝えられた情報 を分析して連結し直す能力の、不断の改善のことです。  

 

一方、「知性」(intelligence)という言葉の語源は、ラテン語の「intelligere」 であり、これは「事物を互いに結びつける」ことを意味し、「ligere」が「結び つける」(lier)を意味しています。 従って、覚醒とは、自分の知性、自分の理解能力の改善のことです。この「理 解する」(comprendre)という言葉の語源は、ラテン語の「comprehendere」 で、これは「一体として捉とら える」とか「全体的に掴つか む」という意味です。  

 

ついでながら、「意識」(conscience)という言葉の語源は、ラテン語の「con sciencia」で、これは「知覚」を意味しています。  従って、意識レベルを向上させることで私たちは、私たちの中にもあり、ま た私たちを取り囲んでもいる無限の知覚レベルを向上させていくのです。  

 

この向上によって、私たちの中にある無限小と、私たちがその中にある無限 大とが、私たちの中で共に生まれることが可能となるのです。

 

出版社:無限堂

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