
前中央軍事委員会政治工作部主任の張陽上将が11月23日、北京の自宅で首つり自殺をした。
2017年12月6日(水)

前中央軍事委員会政治工作部主任の張陽上将が11月23日、北京の自宅で首つり自殺をした。
これがどうやら「自殺させられた」のだと聞くと、いったい解放軍に何が起きているのか、と思うことだろう。
張陽の死は、自殺後5日経って国内で報道された。
「腐敗の罪を恐れて自殺した」と報じられた。
しかし、香港メディアによれば、直前に一人の警備員が、「治療を行う」と言って張陽の部屋に入っていったのだという。その後、自殺しているのが発見された。張陽はなぜ自殺させられたのか、事件の背後に何があるのか。飛び交う噂を一度整理しておこう。
張陽のことを知らない人のために少し説明しておこう。
彼は胡錦濤時代に上将に出世した、軍内の共青団派の軍首脳として知られる。習近平政権の軍制改革前の解放軍総政治部で最後の主任を務めた後、軍制改革後の中央軍事委員会政治工作部主任職を継続した。
2004年に旧広州軍区政治部主任、07年に旧広州軍区政治委員に昇進。このころ共青団派の政治家・汪洋が広東省の書記を務めており、2008年1月の春節時機に起きた記録的な中国南部大雪害の折は、汪洋の要請に従って最前線の現場で、リスク管理の指揮をとった。
また同年の四川大地震での救援活動、五輪の香港会場の安全管理などでも活躍しているほか、深圳市の郊外の村に小学校を建てたり、故郷の河北省武強県の貧しい村に衣類などの支援物資を送ったりする支援活動にも積極的だった。2010年には上将に出世、2012年には総政治部主任となって中央軍事委員会入りした。
この経歴を見れば、一点の曇りもない。貧しい農村の小学校への寄付活動を積極的に行い、暴動に発展するやもしれない緊張をはらんだ南部大雪害の被災者対応や、過酷な四川の山奥での救援活動で成果を上げてきた有能さは、広く評価されてきた。
その共青団派エース級の軍首脳であった張陽が2017年夏、突如姿を消した。そして9月には彼が汚職容疑で拘束中であることが、香港メディアの報道で明らかになった。
このとき、元中央軍事委員会連合参謀部主任参謀長であった房峰輝も汚職容疑で拘束されていると報じられている。房峰輝は2007年に北京軍区指令となり七大軍区最年少司令の記録を作り、2009年の建国60周年記念の胡錦濤による解放軍大閲兵式の指揮も務めた胡錦濤の愛将である。二人とも胡錦濤派といわれ、国際交流の現場にもよく出るため、その思考は開明的で軍内改革派であったともいわれている。
2017年秋の党大会前に胡錦濤派軍人二人が揃って失脚したことについて、多くのチャイナウォッチャーらが、いよいよ習近平の軍内粛清が胡錦濤派に及び始めた、というふうに受け取っていた。そして党大会後、早々に張陽の“自殺”騒動である。
張陽はなぜ死なねばならなかったのか。
中国国内では、張陽は習近平に2014年に失脚させられた解放軍長老の重鎮中の重鎮・徐才厚と密接な関係があり、徐才厚の汚職に連座していたことをほのめかす報道がされている。また、張陽は広州軍区時代、多くのビジネスマンから賄賂を受け取り、別荘のリフォーム代など300万元などを支払ってもらった、などと一部報道で伝えられている。
確かに徐才厚は長年総政治部主任を務めており、同じ政治部系の道を歩む張陽にとっては上司である。だが「博聞ニュース」など香港情報によれば、張陽は、米国に逃亡中の闇の政商・郭文貴に2000万元および200丁の銃を与えていたという説もある。のちに北京郊外で、これら銃が発見されたが、郭文貴はこの銃の来歴を一切説明していない。
張陽は軍の規律検査委からの取り調べに対して、これらの銃を北方工業公司で購入し、アフリカの某国の名義で一度海外に集荷した後、再び国内に返送させ、北京郊外の某所に隠しておいたことを自白したという。張陽は“クーデター”計画にかかわっていた、というのである。
では、この“クーデター”とはいつの“クーデター”のことなのか。実は習近平政権になってから“クーデター”騒ぎの噂はいくつかあるのだ。
有名なのは2012年3月19日の解放軍と中央警衛局と公安警察が複雑に絡み合う“3・19政変”の噂だ。この夜、北京の公安大楼付近で何があったのかは真相不明。ただ、銃声が聞こえ、装甲車が出動する異変が起きていた。
その前日未明には令計画(胡錦濤の側近、失脚済)の息子のフェラーリ事件が起きている。令計画の息子・令谷が運転する黒のフェラーリが北京市内で事故を起こし、死亡した事件だ。同乗していたチベット族幹部の娘2人とともに裸で発見された衝撃的な事件で、当時は緘口令が敷かれたが、目撃者が多すぎて、隠し通せなかった。
この翌日に“3・19政変”と呼ばれる異変が起き、これは薄熙来失脚を受けて、薄熙来とともに政変計画を立てていた周永康が起こしたアクションだといわれている。令計画の失脚は、表向き周永康の汚職に連座していたことになるが、フェラーリ事件が令計画を陥れるための謀略であったという説、令計画を守るために、胡錦濤(当時中央軍事委員会主席)が中央警衛局や38集団軍を出動させ、それに周永康が指揮する公安及び武装警察が対峙した、という説など、入り乱れている。
ちなみに私は、令計画と周永康が共謀して習近平を失脚させようとした、という通説は疑っている。令計画は周永康と結託していたという濡れ衣でもって習近平に失脚させられたのではないか。
ちなみに“3・19政変”の騒ぎに連座する形で、多くの軍幹部、武装警察幹部、公安幹部、中央警衛局幹部が取り調べを受け、あるいは失脚している。
その中で、大きなニュースとなったのは元中央軍事委員会連合参謀部副参謀長、元武装警察司令だった上将、王建平の失脚である。彼は2016年1月、新設された連合参謀部副部長に昇進したそのおよそ半年後の8月26日、四川省成都を視察中に突然、軍の規律検査委員会に連行され、同年末には汚職容疑で立件された。現役上将の失脚は文革後初めてである。それまで失脚した軍長老の徐才厚、郭伯雄らはみな退役上将だった。さらに衝撃的だったのは、王建平は2017年4月、北京の看守所で、箸を頸動脈に突き刺すという苛烈な方法で自殺を遂げた。
この王建平が“3・19政変”でどういう役割を担ったのかは、“3・19政変”自体に諸説あるので、やはり不明なのだが、このとき公安大楼の前に出動した武装警察を指揮していたのは王建平であったといわれている。当時の公安警察・武装警察トップは周永康であるので、王建平が周永康の命令に従って出動したとはいえる。もっとも、その現場で、王建平は周永康の命令に従わなかった、という説もあり、だからこそ、その後2016年1月までは順調に出世を遂げたともいえる。
では、房峰輝、張陽の失脚も、この“3・19政変”にかかわっているのだろうか。あるいは王建平と何らかの関係があるのだろうか。
博聞などは、房峰輝、張陽、王建平らは、“3・19政変”とはまた違う形の、習近平の身柄をいきなり拘束して退陣を迫る、1976年の四人組逮捕方式の政変を企てていたという。だが、その企ては早々に発覚した。そして、この企てには郭文貴も一枚かんでおり、郭文統が党大会前に、米国からインターネットで暴露情報を発信する行動もその計画の一部だとか。その計画が予定通り行われたのであれば、第19回党大会当日に大事件が起きたかもしれない。
ここで房峰輝の失脚にまつわる一つの噂が思い出される。2017年5月以降のブータン・中国の係争地ドクラム高地で中印両軍がにらみ合い、一触即発の危機が生じたのは、房峰輝の命令による解放軍のドクラム高地での軍用道路建設がきっかけで、しかも彼は中印撤退協定の調印にも最後まで抵抗していたがため、参謀長を解任された、という噂である。習近平は、房峰輝に謀反の心ありと疑ったといわれる。つまり、胡錦濤派軍首脳で最も力のある房峰輝、張陽の二人が連携して、中印国境危機に乗じて、政変を仕掛けようと準備をしていたのではないか、という憶測がある。
また別の香港筋は、2016年、2017年と北京をはじめ中国全土頻発している退役軍人デモを裏で画策していたのは、張陽、房峰輝の二人で、退役軍人デモに乗じて政変を計画していたという。
もし“クーデター”説が正しいなら、この“クーデター”計画には、真の首謀者たる党内最高指導部か長老の後ろ盾があり、張陽が自殺させられたのは、その秘密を自白させないためではないか、という疑いが出てくる。となると、房峰輝も今後「自殺させられる」可能性がある。
こうした政変疑惑とは別に、中国国内報道では、張陽は徐才厚閥で、房峰輝は郭伯雄(失脚済)と利益供与関係にあり、二人ともひどく腐敗しており、だから、失脚したともっぱら喧伝されている。
張陽は2014年以降、解放軍報への寄稿や軍内の公式会議の場で実に13回も徐才厚、郭伯雄を批判している。張陽が江沢民のお気に入りの贾廷安を押しのけて総政治部主任の座に就いたのは、間違いなく南部大雪害の活躍を強く推した胡錦濤の力であり、張陽はこの後、ことあるごとに胡錦濤派としての忠誠を表明してきた。
徐才厚は軍内の江沢民の代理人であり、胡錦濤の軍権掌握をずっと妨害してきた人物であり、構図的には江沢民派の徐才厚とは対立関係にあったはずだ。張陽と徐才厚が結託していた、という話には無理がないか? だが中国メディアは、口先では徐才厚らを批判しておきながら、裏では汚職でつながっている、と報じている。この汚職説は、張陽と房峰輝の本当の失脚理由を隠蔽するための目くらまし報道であると私は見ている。
張陽らが本当に“クーデター”を計画していたかどうかはさておき、確実に一つ言えることは、張陽も房峰輝も、習近平の軍制改革には内心強い不満を抱いていたらしい。それぞれ総政治部主任、総参謀部参謀長という軍内で極めて強い権限を持つ地位から、中央軍事委員会主席の習近平の秘書レベルにまで事実上格下げになったわけだから、面白いわけがない。
しかも、彼らの直属の上司の習近平は左手で敬礼してしまう軍のしきたりに無知な人間だ。こうした軍内の不満は、実のところ、積もりに積もって、軍の機能にも影響するほどだとも言われている。中央軍事委員会のメンバーが11人から大幅に縮小した7人になったのは、習近平が望んで「スリム化」したわけでなく、「粛清」のし過ぎで、経験と地位ともども中央軍事委員会入りするに足る高級将校が足りなくなった、とか。
香港誌「前哨」10月号によれば、二人は軍の実力派首脳として、習近平の徐才厚・郭伯雄派閥の将校の徹底排除に抵抗したという。このことが、習近平の逆鱗にふれたようだ。だが、これは二人が徐才厚・郭伯雄派閥として腐敗していたための保身の言動ではなく、むしろ軍内の不満を代弁し、部下たちを守ろうとした、というふうにとる方が普通だろう。軍内で過去5年に失脚させられた高級将校は160人。うち少将以上で自殺した者が、17人以上。おそらくもっと増える。戦闘以外で軍の高級将校がこれほど多く死ぬのは明らかに異常である。
習近平はこんな無茶な粛清を続けていて、本当に軍権を掌握できるのだろうか。今世紀半ばに世界一流の人民軍隊建設を実現すると打ち出す習近平政権だが、世界一流どころか、“クーデター”を絶対起こさないと安心できる、政権に不満を持たない軍隊にすることがまず課題である気がする。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/218009/120500128/?i_cid=nbpnbo_tp