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ヒト受精卵の遺伝子変え、生まれる前に難病治療

 
 難病のもとになる遺伝子の異常を受精卵のうちに治し、健康な子どもが生まれるようにする。こんな予防・治療法を、厳しい条件付きながら容認する報告書を、世界の科学政策に影響力をもつ米科学アカデミー(NAS)がまとめた後の世代にまで影響が残り「神の領域」に近づくともいえる医療なだけに、アクセルとブレーキの加減が極めて難しい。

■この1年で大きく進歩、狙った遺伝子だけ操作可能

 長年、子宝に恵まれなかった夫婦が不妊治療によって受精卵を得て、胎内に戻す前に詳しく検査したところ病気との因果関係が明らかな遺伝子の異常が見つかったとする。最新の技術を使えば受精卵の段階で治せるが、もし病気とは無関係な部分の遺伝子にまで意図せざる変化が起きたら、成長の過程で体に異常が出るかもしれない。健康だったとしても、その子や孫に、異常が現れる可能性もある――。こんな場合、どうしたらよいか。

 今回の米科学アカデミーの報告書「ヒトゲノム編集:科学、倫理ガバナンス」は米国、英国、中国の研究者らが1年以上議論し、専門家以外の人たちの意見も参考にしながら、この難問に答えようと試みた結果である。国際的な共通ルールの基盤にしたいとの狙いもある。対象となる難病は遺伝性疾患のハンチントン病、地中海貧血とも呼ばれるサラセミア、ライソゾーム病の一種であるテイ―サックス病などを想定している。

 これまで各国で卵子、精子、受精卵といった生殖にかかわる細胞の遺伝子操作はタブーとされていた。そもそも、病気に関係する部分だけを上手に操作して治す手法はなく、想像の世界での話でしかなかった。ところが、遺伝子の異常な部分を切り落とし、残りをきれいにつなぐなどの「切り貼り」が比較的容易にできるゲノム編集」の技術が進んで状況が一変した。なかでも「クリスパー・キャス」という手法なら、かなり正確に操作ができ、臨床応用への期待が高まった。

 米科学アカデミーが受精卵などへのゲノム編集の問題を正面から取り上げる国際会議「ヒトのゲノム編集に関する国際サミット」を開いたのは、2015年12月にさかのぼる。きっかけは同年4月に中国のグループが、受精卵にゲノム編集を施したとする研究結果を世界で初めて発表したことだった。

 生殖にかかわる細胞に対するゲノム編集には、慎重な声が多かった。サミットの声明には、不妊症のメカニズムの解明など基礎的な研究のためには認められても胎内に戻して出産させるのは現時点では「無責任」と盛り込んだ。

 その後、専門委員会や公開討論会などを重ね、公表したのが今年2月14日の報告書だ。生殖にかかわる細胞のゲノム編集は「容認されうる」と明記した点が前回の声明と大きく異なる

 記者会見した専門委員会の委員は理由として、「この1年ほどの間に技術が大きく進んだ」ことなどをあげた。ゲノム編集で狙ったのとは違う部分の遺伝子を改変してしまう「オフターゲティング」を、かなり減らせるようになったという。受精卵ではなく体細胞にゲノム編集を施して病気を治療する手法に関しては、中国などで臨床応用が始まっている。これらの知見も役立つとの見方を示した。

厳しい条件示し、臨床応用に歯止めをかける効果も

 ただ、重要なのは今回の報告書が単純に受精卵などのゲノム編集を解禁し、推進しているわけではない点だ。「慎重に、かつ一般の人々の意見を幅広く取り入れながら」進めるべきだとして、実施が認められる場合の厳しい条件を10項目ほど掲げた。

生殖系の細胞へのゲノム編集の臨床応用を認める条件

•ほかに合理的な代替手段がない

•深刻な病気や症状を防ぐ目的に限る

•疾病要因である、または症状が起きやすくなると確実に示された遺伝子の編集に限る

•広く知られ健康の維持につながるとされる状態への遺伝子の改変であり副作用が起きないものに限る

•手法のリスクと健康への潜在的な利点を示す信頼できる前臨床または臨床データがある

•手法が健康と被験者の安全に及ぼす影響の監視を臨床試験の期間中厳格に続ける
•被験者の匿名性を尊重しつつ包括的かつ長期的で何世代にもわたる追跡調査の計画がある

•患者のプライバシーに配慮しつつ最大限の透明性をもたせる

•一般からの幅広い意見集約と議論への参加を通して健康と社会的な利点について継続的に再評価を重ねる

•深刻な病気や症状を防ぐ目的以外への使用を食い止めるための信頼に足る監視態勢をつくる

米科学アカデミー報告書「ヒトゲノム編集:科学、倫理とガバナンス」より

具体的には「ほかに治療法がない」「病気の原因や深刻な症状を確実にもたらすとわかっている」「リスクや健康上の利点に関する信頼できる非臨床・臨床データがある」「臨床試験が厳格に監視される」などだ。また、米食品医薬品局(FDA)は、子孫に受け継がれる遺伝子の意図的改変を伴うような、受精卵を使った研究を禁じている。この規制が緩和されない限り、受精卵にゲノム編集を施して病気の予防・治療をする臨床試験は米国では認められない。

 日本遺伝子細胞治療学会理事長の金田安史・大阪大学教授は報告書について、「厳しい条件を具体的に示すことにより、受精卵などのゲノム編集の臨床応用に歯止めをかける効果がある」と指摘する。米遺伝子細胞治療学会は「科学アカデミーは現在知られているゲノム編集の方法や応用法に、これらの厳格な条件を満たすものはないと認識している」とする見解を会員向けに出した。

 それでも、将来の予防・治療への応用に道を開いた意味は大きい。技術が急速に進化するという前提に立ち、いざ臨床試験を計画する研究者や患者が現れ世論の支持も増えた場合に備えて、少しでもルールの土台をつくっておこうという発想だ。記者会見でも報告書をまとめた専門家の一人は、「FDAに対して規制の見直しを働きかけていくきっかけになれば」と話していた。

 そして、仮に米国の規制緩和が遅れたとしても、報告書で示した内容を、海外での臨床試験検討の際のよりどころにしてほしいという。いわば「国際ルール」のたたき台としての位置づけだ。

日本は「臨床応用はすべきでない」との方針

 生殖にかかわる細胞に対するゲノム編集の臨床応用に、日本はどう向き合っているのだろうか。政府の総合科学技術・イノベーション会議の生命倫理専門調査会で15年以来、ゲノム編集の海外動向や国内の関連研究者の取り組みを聞き、指針づくりなどを議論してきた。16年4月に出した「ヒト受精胚へのゲノム編集技術を用いる研究について(中間まとめ)」では、受精卵などへのゲノム編集は基礎研究に限って認め、研究目的として「胚の初期発生や発育(分化)における遺伝子の機能解明」などを列挙した一方で、ゲノム編集を施した胚を「胎内に移植することは容認できない」として臨床応用はすべきでないとの方針を明確にした。

 基礎研究への利用をどのように進めるかの指針づくりは、日本産科婦人科学会、日本生殖医学会、日本遺伝子細胞治療学会、日本人類遺伝学会の関係4学会で構成する合同委員会に委ねた。「法制化は厳しすぎるが何らかの指針が必要」「関係省庁がルールをつくると時間ばかりかかり融通がきかない」などの意見を踏まえた結果だ。文部科学省や厚生労働省が、「面倒な問題」にはあまり触れたくないという姿勢で、指針づくりに消極的だったという事情もある。4学会は今年3月末までに合同委員会を正式発足し、夏をめどに指針をまとめる計画だ。

 しかし、これとは別に「学者の国会」とも呼ばれる日本学術会議も「医学・医療領域におけるゲノム編集技術のあり方検討委員会」を開いて、生殖にかかわる細胞へのゲノム編集の是非などを検討している。社会科学や法学系の委員が多く、生命倫理専門調査会に比べて慎重意見が目立つ。学会による指針づくりを問題視する声もあるなど、足並みがそろっていない。日本全体としてのコンセンサスづくりに手間取る可能性がある。


日本の生命倫理専門調査会の見解

•ゲノム編集技術を適用したヒト受精胚の臨床利用については、現時点で容認できない。すなわち、ゲノム編集技術を用いたヒト受精胚をヒトの胎内へ移植することは容認できない

•現時点では以下のような課題がある

1.オフターゲット及びモザイク(遺伝子が改変された細胞と改変されていない細胞が混在している状態)のリスクがある

2.遺伝子改変による他の遺伝子等への影響などは現時点で全く予想できない

3.世代を超えて影響が残ることから、その影響に伴うリスクを払拭できる科学的な実証は十分でない(略)、子孫にわたって長期にどのような影響を生じうるかを分析する必要があるが、それを倫理的に問題なく、十分に検証することが現在の科学ではできないと認識される

4.遺伝子の総体が過去の人類からの貴重な遺産であることを考えると、現在の社会において生活する上での脆弱性を理由に次の世代に伝えないという選択をするよりは、その脆弱性を包摂できる社会を構築すべきであるとの考えもあり、広く社会の慎重な議論が必要である

総合科学技術・イノベーション会議生命倫理専門調査会「ヒト受精胚へのゲノム編集技術を用いる研究について(中間まとめ)」より

■普及すると遺伝子の多様性が損われる心配も

 米科学アカデミーの専門委員会には、英国や中国の専門家は入っているのに、体外受精の実施件数が世界一の日本が入っていなかった。米欧に比べて日本では一般の人々を巻き込んだ議論の場も少なく、「見えないところで危険な技術の利用が話し合われている」という、実際とは異なる印象が広がる懸念も出ている。

 もちろん、米科学アカデミーの報告書も決して完璧ではない。「筋骨隆々の肉体がほしい」といった、病気に直結しない身体の特徴や機能を高めた「デザイナーベビー」の誕生などは認められるべきではないとしている。しかし、一部の病気関連の遺伝子が体の別の機能とかかわっていた場合、どこで線引きをするのか、解は得られていない。

 もっと根本的な問題もある。ゲノム編集で特定の遺伝子操作を加えた子ばかり増えた場合、人類の存続に不可欠とされてきた遺伝子の多様性が損なわれる心配はないか、との指摘が出ているのだ。いずれも、今後、検討を続けなければならない。

 遺伝性疾患をもつ子どもが生まれる可能性については、受精卵の遺伝子をあらかじめ調べる「着床前診断」でかなりわかるようになってきた。治すのではなく、その時点で胎内に戻すのをやめる方法もありうる。遺伝子を操作するか、受精卵そのものを捨ててしまうか。究極の選択を迫られたときに、人々は何を基準にどう決断を下したらよいのか。難しい問題だ。だからこそ「専門家以外の多くの人たちを巻き込んだ議論が大切だ」と報告書は繰り返し強調する。

 多くの課題を残しながらも、米科学アカデミーが、次々に新しい論文が出るゲノム編集研究のスピードに合わせて喫緊の問題を検討し、現時点でベストと考えられる方向性を報告書にまとめた意味は大きい。技術やニーズ、世論の実態に合わせてルールづくりのあり方などは柔軟に見直せばよい。日本の政府や学界も現実に即した検討過程を参考にするとともに、積極的に海外の議論にも加わり、先端的な技術を上手に活用できる環境を整えるべきだろう

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