マイトレーヤ・ラエルのコメント:
フランスの野蛮な植民主義者の権力を追い出すのに尽くした偉大な英雄。
Rael Maitreya's COMMENT : a great hero who helped expel the french barbarian colonialist. power.
国家独立の英雄の故郷の村での埋葬に数万人のアルジェリア人が参列
Tens of thousands of Algerians attend the burial of national independence hero Hocine Ait-Ahmed in his home village.
2015年12月30日22時47分掲載 日刊べリタ
「ホシン・アイット・アメッド 」 ~アルジェリア民主化の闘士、死す 享年89~ アブデルマジド・ベンカシ(Abdelmadjid Benkaci)
ホシン・アイット・アメッド(Hocine Ait Ahmed)は1926年8月20日、アルジェリアの山岳地帯として知られるカビル地方の小さな村で生まれた。アイット・アメッドはその村の名前であるのだ。彼はアルジェリア・ナショナリズムの先頭に位置した人物であり、1954年11月1日に革命を起こした9人の中の一人なのだ。 ホシン・アイット・アメッドが自由や人間の尊厳といった価値を学び取ったのはアルジェリア人民党においてだった。この政党はアルジェリアのナショナリズムにとっては欠かすことができない人物であるメッサリ・ハッジ(Messali Hadj)によって設立された。ホシン・アイット・アメッド終生、その道から外れることはなかったのだ。そして、彼はその道をアルジェリアに築いた。しかし、アルジェリア人民党にホシン・アイット・アメッドが入党したのはわずか17歳だったのだ。 その後、彼はオルガ二ザシオン・スペシアル(OS)という組織の設立に参加した。この組織はゲリラ闘争のできる兵士の養成機関となった。そして、この組織が後の解放戦線に結実するのである。 彼はOSのリーダーとなり、もうひとりのアルジェリアの大義のために戦った英雄であるMohamed Belouizdad の後継者となった。ホシン・アイット・アメッドはずば抜けた統率能力を持っていたし、また貴重な参謀長でもあった。というのも、集まってきた活動家たちに軍事訓練を授けようと考えたのはほかならぬホシン・アイット・アメッドだったからだ。 ホシン・アイット・アメッドはアルジェリア独立戦争を起こした9人の一人だったが、1954年11月1日に独立戦争が始まった時はMohamed Khider や アフメド・ベン・ベラ(Ahmed Ben Bella)とともにカイロにいた。その後、1955年にバンドンで行われた国際会議(アジア・アフリカ会議)にFLN(アルジェリア民族解放戦線) の代表として参加した。 アルジェリアの独立というテーマをこの歴史的なバンドン会議にかけるようスカルノ大統領の周囲で根回ししたのはほかならぬホシン・アイット・アメッドだった。これはバンドン会議の開催に先立って何週間にも渡って行われた作業の末だった。このバンドン会議でアルジェリアの代表団は自治を進めるため今後は外交活動を行うことを宣言した。 彼は国連に派遣されたFLNの初代代表だった。M'hamed Yazidのサポートを得ながら、国の大義のために疲れを知らないように努力を続けた。彼が取り組んだのは独立を求めるアルジェリアの戦いが正当性を持つことを国際社会にアピールすることだった。 アルジェリアのナショナリストの疲れを知らない闘いはそこに留まることはなかった。ホシン・アイット・アメッドはベン・ベラやキデル、ブーディアフ、Lachraf らとともに獄中にいたが、アルジェリア共和国(GPRA)の暫定政府を設立することを思いつき、それは1958年9月19日に実現した。これはレダ・マレクの証言によるものだ。 ホシン・アイット・アメッドの闘いは独立後も続いた。今度は一党独裁に対する闘いだった。それは独立の戦いをともに戦った仲間たちとの闘いだった。彼は民主主義を守るために1963年に Front des Forces Socialiste(FFS)を設立した。FFSはアルジェリアの最初の野党になった。まずベン・ベラ大統領への反対活動であり、 次には1965年6月19日にクーデターを起こした軍人のフワーリー・ブーメディエン大統領との闘いだった。 アイット・アメッドは1964年に死刑を宣告された。しかし、1966年5月1日に脱走に成功。スイスに渡った。その後、23年間亡命生活を送り、帰国できたのは1988年10月になってからだった。その年、アルジェリアでは一党独裁に終止符を打ち、複数の政党が認められたのだった。彼も自分の政党であるFFSから地方選挙と国政選挙に打って出た。それが1990年と91年ことだ。 1992年6月に4人目の大統領であるムハンマド・ブーディアフが暗殺された後、ブーディアフの仲間だったホシン・アイット・アメッドはイスラム主義者によって混乱に陥ったアルジェリアを離れたが、その混迷は10年に渡るものだった。そして、10数万人が命を落とすことになった。ホシン・アイット・アメッドはスイスに居を構えた。その後、アルジェリアに帰国したのは1999年のことで、大統領選挙に出馬するためだった。ホシン・アイット・アメッドは立候補を表明したのだが、アブデルアジズ・ブーテフリカを大統領にするために、他の候補者たちと立候補を取りさげた。 最初のアルジェリアの自由な選挙でイスラム主義者が勝利したあと、ホシン・アイット・アメッドはその選挙を無効にすることに対しては反対の立場を取った。彼のその判断に対しては反対の声もまたあった。しかし、それでも彼は1995年1月にローマで結ばれることになった国民の和解のための協定のために精力的に取り組んだ。イスラム主義者と世俗主義者との間の和解である。 ホシン・アイット・アメッドはアルジェリアの野党のリーダーとして外国人にもっとも知られた人物である。とくに社会主義者の間でだ。一貫して彼は戦い続けてきた。 フランスの植民地支配への抵抗から、アルジェリア政府に対する異議申し立てまで、ホシン・アイット・アメッドは20世紀のアルジェリアの政治に大きな足あとを残した。それらは1940年代に遡るナショナリズムの闘争や民主主義への闘い、そしてアルジェリア独立によってもたらされた人権の尊重である。それらは苦悩と暴力の中で行われた戦いだった。しかし、アルジェリアはそれらの闘いによって、独立へのもうひとつの道に歩み出すことができたのだ。ホシン・アイット・アメッドは十分な足跡を残し、そして89歳で生涯を閉じた。 ホシン・アイット・アメッドはスイスのローザンヌで12月23日に息を引き取った。カリスマのあるリーダーは逝った。彼が地上に残したものは自らを犠牲にする感覚、自由への闘い、人間の権利といったものだ。彼は来年の1月1日に生まれ故郷に埋葬される予定である。さようなら、ホシン。 Abdelmadjid Benkaci, Algerian Reporter アブデルマジド・ベンカシ(アルジェリアのジャーナリスト) http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201512302247283 |