孫崎 享さんの記事です:
Date: Sun, 03 May 2015 20:35:26 +0900
Subject: 安倍首相は米国議会で祖父、岸信介元首相に言及。なら岸信介と米国の関係を見てみよう。
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『戦後史の正体』では岸元首相について、相当書き込んでいます、岸首相が米国で如何に歓迎されたか、そしてそれは米国のエージェントに演出されたことを書きました。
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戦後、岸信介の周辺には、米国の影の部分が徘徊しています。
岸自身、『岸信介証言録』などで「コンプトン・パケナム、ニューズウィーク東京支局長が、岸の幹事長時代、英語を教えるということで、週一回岸の家を訪れていた」ことをのべています。
米国は岸に首相になる前から注目していたのです。
岸は戦前にジョーゼフ・グルー駐日大使(一九三二年から四二年)とも交友関係をもっていました。グルーのゴルフ仲間です。
なによりも冷戦が始まるなかで、米国が日本を「共産主義に対する防波堤」とする決意をかためたとき、岸信介など、第二次大戦に関与した勢力の利用が考えられるようになったのです。
ティム・ワイナーの『CIA秘録』には次の記述があります。
「それから七年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑から首相へと変身させた。岸は『ニューズウィーク』誌の東京支局長(パケナム)から英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家の知己を得ることになる。カーンはアレン・ダレスの親友で、後に東京におけるCIAの仲介役をつとめた。岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ」
岸が巣鴨から釈放されると米側はすぐに接近しています。岸のヨーロッパ旅行やアメリカ旅行の手配もしています。さらには一九五五年八月、ダレスは岸との会談で、「もし日本の保守派が一致して共産主義者とのアメリカの戦いを助けるなら、〔財政的〕支援を期待してもいい」とのべています。同年十一月に保守合同が行なわれ、いわゆる「五五年体制」がスタートする三カ月目のことでした。
米国は吉田政権のあと、鳩山政権や石橋政権ではなく、すぐに岸信介が首相になることを期待していました。
岸信介に週一回英語を教えたパケナムは、たんなる記者ではありません。アメリカ対日協議会(ACG)の一員です。この協会は米国が「日本を共産主義の防波堤に使う」という方針を実行するために設立されたもので、グルーが名誉会長、メンバーにはニューズウィーク東京支局長のパケナムや、同誌外信部長のハリー・カーンなどがいました。
カーンやパケナムは岸信介を首相に押し上げることで、自分たちのプログラムを推進しようと思っていたはずです。
問題は岸信介自身の対応です。読者のみなさんは、前に冷戦の始まりのところで獄中の岸信介の判断にふれたことを記憶されているでしょうか。岸は一九四六年の段階で、「冷戦の推移はわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、〔自分たちも〕首をしめられずにすむだろう」と思っていたのです。
岸信介は米国の占領下で、文字どおり「生き抜くために米国に使われること」を選択した人物です。ただ、岸はそこで止まってはいませんでした。米国の力を利用して自分の主義を実現させることを考えていたのです。
米国務次官補のヒルズマンによれば、一九六〇年代の始めまでに、CIAから日本の政党と政治家に対し、毎年二〇〇万ドルから一〇〇〇万ドルの資金提供をすることが慣例となっていたといいます。その中心が岸だったことはまちがいありません。
首相となった岸は、一九五七年年六月訪米します。ここで何があったか、見てみたいと思います。、
「着いた日にホワイトハウスにアイゼンハワーを表敬訪問したのです。
緊張して挨拶するとアイクが、午後用事がなければゴルフをやろうじゃないかと言いだした。
ダレスさんはゴルフはやらないんだよ。
それからワシントンのヴァーニングトリーという女人禁制のゴルフ場にいったのです。プレーのあと、ロッカーで着替えをすることになって、レディを入れないから、みな真っ裸だ。真っ裸になってふたりで差し向かいでシャワーをあびながら、話をしたけれど、これぞ男と男のつきあいだよ」(『岸信介の回想』)
この裸のつき合いは重要な意味をもっています。
それまで、米国の対日関係はほとんどダレスが牛耳っていました。きわめてきびしい対日政策をとっていたのです。
一方、そのダレスはアイゼンハワー大統領に対しては絶対服従の姿勢をとっています。
そうした状況のなか、岸首相がワシントンについてすぐゴルフをしたことで、数時間だけですがダレス抜きでアイゼンハワーと会った時間が生まれます。
このときふたりのあいだでなにがあったかはわかりません。しかし正式な会談でアイゼンハワーはダレスに対し、「岸首相はせっかく遠くから来たんだから、彼の立場も考えてやれよ」といっています。ダレスはわずか二年前に重光外相をきびしくやっつけています。けれどもゴルフをしてふたりだけの時間をもったおかげで、ダレスは岸とアイゼンハワーの関係がどれくらい親密なものかわからなくなり、岸に対してきびしく切りこめなくなったのです。現実の外交では、こういう非常に人間くさいファクターが、交渉の行方を大きく左右することがあるのです。
岸はこの訪米中、ヤンキースタジアムで始球式もしています。ニューヨーク・ヤンキースとシカゴ・ホワイトソックスの試合です。アイゼンハワー大統領とのゴルフもそうですが、こうしたアイディアは日本の外務省が出せるようなものではありません。在日米国大使館が出したものでもありません。おそらくパケナムやその上司のハリー・カーンなどがセットしたものなのです。
そのパケナムは同年八月中旬、突然倒れ、十八日に脳塞栓症で亡くなります。ダレスも二年後の一九五九年五月、癌で死亡しています。一方、岸は三〇年後の一九八七年、九〇歳まで生きています。
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