車窓からの道後山

新見駅
駅の周辺を見る限りでは、22年ほど前に姫新線に乗りに来た時とあまり変わらない。高梁と違い時が止まった感じがする。

ここから乗り込む列車は1両のワンマンカー。12名が乗り込んだ。過半数が学生だった。部活帰りのようだ。うち制服姿の女子高生が1名。東城までの定期券を持っているのが見えた。


13:00、いよいよ発車した。未乗線区を乗りながらの一献は美味い。ビールを飲み、岡山で購入した駅弁を食べながら車窓を楽しむ。

備中神代で1名乗車してきた。見るからに鉄道マニアといった感じである。お前もそんなこと言うなと言われそうだが(笑)とにかく、ここからいよいよ芸備線である。

ディーゼルカーは高梁川の支流神代川と国道182号線や中国自動車道と並行して西に向かう。芸備線や姫新線にとれば、中国自動車道によって経営状況が一気に悪化した路線だ。しかし今ではその中国自動車道自体が、山陽自動車道の開通によって危うい存在となっている。道路は鉄道と違って廃止はあり得ないが、私が見ているときは上下合わせて1台走っているかいないかだ。ガードレールもかなり更新していないのがわかった。

初めて下車する人が現れたのが市岡。駅の近くにJAのカントリーエレベーターがあり「あしん源流米」と書かれてあった。圃場は小区画のものが多く、平地もそんなに広くない。大規模経営は不可能だろうな、と思った。それでもどうにかして生き残っていかねばならないのだから。

旧哲西町の中心部に近い野地で男子学生が全員下車した。そして県境を超え広島県に入った。

東城着。2名下車し3名乗ってきた。とはいえ女子学生が下車してしまったので、車内はおっさんおばさんだらけになった。(おじいさんおばあさんを含む)


現在は庄原市の一部になってしまった東城だが、私には独特の意味を持っていた町であった。というのは、私はガキの頃から地図を見るのが大好きで、特に高速道路のSA(サービスエリア)に置いてある地図が好きだった。しかし当時私が最も入手先としていた小矢部川SAでは、道央自動車道と九州自動車道のものは仕方がないにせよ、東北自動車道の北半分と中国自動車道の西半分の地図がなかなか手に入らなかった。中国自動車道の地図は東が新見IC(インターチェンジ)までとなっていた。新見から先、最初のICが東城である。そして東城の前後のICまでの距離が長い。特殊な街に映って見えた。

さらに東城の先にある帝釈峡PA(パーキングエリア)も独特な意味を持っていた。「たいしゃくきょう」という語感と言い、当時はPAには珍しいガソリンスタンドもあった。そんなのは東北自動車道の鶴巣PAとか中国自動車道の阿智PAとか数が限られていたので、また特別な場所に見えた。


そんな東城だが、実際は小盆地に開けた如何にもらしい“町”といった感じだ。交通の便が良すぎるからか、列車の本数は少ないが、急行ならば停めたくなるような(実際、芸備線を急行が走っていた頃は全列車停車していたが)町だった。

そして、見ていて好ましい川が流れている。川の名前はなんだろう、と思い持参の地図を開いて驚いた。成羽川だった。そう、高梁の話で触れたあの成羽川である。成羽川の上流部が東城だったことは完全に失念していた。


その好ましい成羽川を今度は遡る。しばらく進み、短いトンネルをくぐると沿線に雪が見られるようになってきた。積雪量は我が家(富山県魚津市で標高60mぐらい)と同じぐらいだ。

芸備線のうちの東城-備後西城間は毎年、雪で運休することがある。今年は暖冬で運よくそのようなことはなかった。(もっとも、それだから芸備線に乗るプランを決めたのだが)天気も良く、早春を先取りしたような光景が続いた。

芸備線は列車の本数などから、この東城-庄原館などはもっと人跡稀なるところを走るのかと思っていた。しかしそうではない。集落は結構頻繁に見える。ただ、20軒以下の小集落には駅はなく、50軒ぐらいの集落になったら駅がある。そんな感じに見えた。


成羽川もどんどん細くなり、そして小奴可駅を過ぎて別れた。ここから本格的に山地に入る。


そして道後山駅に停車する少し前に、このような意味の放送が入った。

「備後落合から木次線の代行運転に乗り換える場合は御申し出ください」

とのことである。


本来ならば木次線も乗りたいと思っていた。しかし暖冬であっても大雪で運休ということなので鉄道には乗れない(2月20日より復旧)。私はそのまま芸備線に乗ることにしていた。ただ、もし木次線が運行していたならば貴重すぎるぐらいに接続がよい。放送するのもうなずけた。しかしながらもはや7名となっていた乗客の中から申し出る者はいなかった。


(続く)