『大甲子園』に出れなかった選手達のその後のスピンオフ、中山畜産編も終盤です。
「豊臣はコーチ?それとも部長??」
「1年はコーチをしてもらう。1年経ったら監督だ」
と返した。そして
「豊臣に後を任せたら、お前らと一緒に草野球を楽しむか」
そこから7年の月日が流れた。この月日の間に千葉では新たに湾岸、海浜、総武などが台頭。戦国ぶりにますます拍車がかかった。中山畜産はベスト16やベスト8で敗れるという結果が続いた。
「いよいよだな」
しかしこの年、中山畜産は接戦をものにし決勝に進出した。中山社長をはじめ脇坂、山城らOBの姿が球場に見えた。
「俺たちがたどり着けなかったところに、豊臣が挑むんだな」
「ああ」
対戦相手はこれまた久しぶりの決勝進出、名門の桜ヶ丘だ。
「お前達、思いっきりいってこい」
「はい」
決戦が始まった。
(完)
というわけで中山畜産編はここまでです。中山社長の醸し出す雰囲気が、昔のいいオヤジさんのイメージがあったので、中山畜産及び中山農機を選手達の『帰る場所」にしたいと思いました。
そんな中で豊臣はケタ違い。肩の怪我さえなければ、山田には及ばずともキャッチャーとしてみれぱ博多どんたくの大和田とどちらが世代No.2を争える存在ですからね。当然プロでも大学でもノンプロでも狙える選手です。
その豊臣がどういう径を進むのか考え、この様な形になりました。
さて、次は桜ヶ丘の春山選手バージョンです。まだまだ続きます。
桜ヶ丘 春山
「誠司、お疲れさま」
「ありがとう。楽しかったよ」
千葉大会準々決勝。春山の所属する桜ヶ丘は準々決勝で青田に敗れた。敗れたとはいえ春山の気持ちは清々しかった。
「めいっぱいやったからな」
翌日、春山家では家族会議が行われた。
「誠司、それでいいのかい?」
「うん、大学では勉強したいからね」
千葉の名門桜ヶ丘の1番セカンドとして活躍、2年春には甲子園ベスト4。名だたる大学からスカウトの声もあった。ただ春山はそれを断り、国公立大学を受験するという。
「いくらいい大学でも、野球で行っちゃうと野球優先になっちゃうからね」
春山はベランダに出た。隣のベランダには球道がいた。
「おっ、誠司、どうした?」
「勉強前のリラックスだよ。球道くん、出発は明日だったよね」
「ああ」
球道がちょっと不安そうな目をしている。そう見えた春山は
「試合までに腕、治るといいね」
「その為には何がなんでも不戦勝(大会7日目第3試合)のクジをひかないとな」
前向きなのかどうなのかよくわからない言葉だが、球道らしいと思った。
「応援してるよ」
春山が自分の進路を決めたのには、実は球道の影響があった。
小学校5年生の7月の終わりだった。マンションの隣の部屋に中西一家が引っ越してきた。同じ年であり、春山も野球が好きだったので、すぐに仲良くなった。
小学校中学校と一緒に野球をした。弱小チームで、球道の上手さはひと際目だった。
「こういうやつがプロに行くんだろうな」
思った。いつか追い越したいとも思った。
高校は球道が桜ヶ丘を蹴って青田に行ったためにライバルとなった。2年春のベスト4などで春山も自信をつけていた。ところが
「ケタが違うって、このことをいうんだろうな」
2年秋、完全試合をくらった。凄さを認めるしかなかった。
球道に追いつけない、ということは、プロで活躍するような選手にはなれないということだ。
春山は、野球で人生を切り開くことを諦めた。
野球で人生を切り開くことを諦めた以上、野球で進学するのは春山の選択肢になかった。
ただ、野球をやりたいのも事実だった。そこで国公立大学に進学し、授業と野球、両方を並立させよう、と思ったのだった。
そして野球は、大学で最後だ、とも。
(以降続く)